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36.街

 決して静かではなく、だけど心地良い揺れを感じながら、ラフィーナは向かいに座るネストルを目だけで盗み見た。2人きりの馬車の中。変わらず無表情のネストルは視線を下げたまま、ラフィーナを見ないし、言葉も発しない。


 どこへ向かっているのだろう。カーテンの閉じられた窓では外の様子は見えず、ただ馬車の振動を体に感じるのみ。



「……イリスに言わずに来てしまったけれどいいのかしら?」



 そう小さく呟いた。自分の不在に気が付いたイリスが驚くのではないかと思っていると、ネストルは「問題ない」と目だけでラフィーナを見た。



「クレイトスが伝えている」


「クレイトス?」



 だけど出て来る時にクレイトスにも言っていないはずだ。何故クレイトスが知っているのだろう。


 馬車は段々とスピードを落とし、完全に動きを止めた。着いたのかしら、と思った時、扉が開いた。


 音が襲ってきた。人の声、足音、物音。これまで感じたことのない音の質量。ラフィーナの目が、驚きに大きく見開かれる。開いた扉の向こうには御者ではなくクレイトスが立っていたが、どうしてクレイトスがいるのか考える前にラフィーナの目は更に向こうへと向いた。


 そこに見えるのは人。人。人。とにかくたくさんの人の姿。切り取られた馬車の扉の四角。その中で数えきれないほどの人が現れては消える。


 ラフィーナは何かに押しつぶされそうな感覚を覚えた。目は動かず、瞬きもせず、ただ目の前の光景を見つめるのみ。



「ラフィーナ様」



 静かな声に呼ばれ、ハッとして苦しさを感じた。息を吸うのも忘れていた。意識せずとも体は酸素を求め、空気を吸う。ようやく動くことができた。ゆっくりとネストルへ視線を向ける。



「……これは、何?」



 “これ”が何を指すのか、自分でも分からない。ただ目の前の光景の説明を求めると、ネストルは「平民の住む場所だ」と短く答えた。



「平民……」



 視線をもう一度そちらへ向ける。平民は皇族でも貴族でもない人のことだと聞いた。皇族よりも貴族が多くて、平民はその貴族よりももっとずっと多いのだと。


 それにしても多すぎではないだろうか。



「ラフィーナ様、どうぞ」



 呆然としながらも、目の前に差し出された手を取って立ち上がると、クレイトスは丁寧にラフィーナを馬車の外へと導いた。


 降りて、顔を上げて、息を呑んだ。馬車からでは見えなかったものが全て目に映る。たくさんの建物。広い道を埋め尽くすほどの人。喧騒。知ってはいた。平民も、平民の住む街も、人がたくさんいることも。


 だけど目の前にすると全然違う。


 足の裏にわずかな段差を感じて下を向くと、茶色や赤茶色のレンガが敷き詰められた地面があった。城の庭のような真っ白に整地された地面ではない。


 歩いている人達も、城にいる人たちと比べると、地味で粗末な服を着ている。髪も高く結い上げられているわけでも、豪華な髪飾りがついているわけでもない。


 クレイトスに聞いていた。知っていた。



「……知らない。こんなの知らないわ」



 賑やかな音も、たくさんの視線も。全てが圧となって襲ってくる。


 漏れた呟きは喧騒に掻き消える。自分達が乗って来た馬車を避けて歩く人たちの興味深そうな視線を感じる。道の人たちの視線が全てこちらに向いているような気がして、ラフィーナは思わず一歩下がった。


 頭がくらくらする。



「ラフィーナ様、大丈夫ですか?」



 はっとして横を見ると、クレイトスが気遣うようにラフィーナの顔を覗き込んでいた。「大丈夫よ」と微笑む。声はかき消されたけれど、どうやらクレイトスには伝わったようで、クレイトスも笑みを浮かべた。



「よろしければ少し歩きませんか?」


「ええ……」



 たくさんの視線を受けたまま振り向いて、開いた扉から馬車の中を覗き込むとネストルは「行って来い」と、ひらりと手を振った。



「ネストル様は?」


「ここにいる」



 一緒に来いと誘ったのはネストルなのに。そう思わなくもなかったが、全く動く気のないネストルを見て「じゃあ」と足を踏み出した。その時、後ろから「おい」と声がかけられた。踏み出した足を止めて振り向く。ネストルは無表情のままいつもよりは少し大きな声で言った。



「ここでは俺の名を出すな」



 喧騒の中、聞こえた言葉にラフィーナは首を傾げる。どうしてだろう。分からないけれどとりあえず「はい」と頷いておいた。


 クレイトスと一緒に馬車から離れる。道の両端には店が並んでおり、果物や野菜、肉、布などが高く積まれている。視界に入るもの全てが初めて見るもので、ラフィーナは唖然としながらもきょろきょろと周りを見回しながら歩く。


 少し暑い。人が多いからか、自分が興奮しているからか。春にしては少し強い今日の日差しのせいかもしれない。


 耳に入るたくさんの人の声。その中で『銀色』と『エレンシア』という単語がはっきりと聞こえた。風が吹き、サラリと揺れる自分の髪が視界に入った。


『エレンシア』はエリオスたち、レガルディア帝国の皇家の名前。もしや自分は同じ色を持っているせいで、皇族だと思われているのだろうか。


 隣を歩くクレイトスを見上げると、クレイトスは笑みを浮かべ、帝国語で何かを言った。



「え?」



 しかしクレイトスの言葉は周りの帝国語に紛れ、ラフィーナは聞き取ることができなかった。



『お買い物をしましょう』



 もう一度ゆっくりと言われた言葉。かろうじて聞き取ることができ、小さく頷いた。

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