35.心
少しの沈黙が降り、ネストルは口を開いた。
「お前が……」
言葉が途切れ、視線が僅かに揺れる。まるでその先を口に出すのを躊躇うかのように。しかしそれも一瞬のことで、ネストルはすぐにいつもの静かな瞳を取り戻した。
「お前が兄にされていたようなことをされてもいいと思う相手なら」
「お兄様に……」
呟き、思い出し、少し寒くなった。その感覚を誤魔化すように、途中だった靴下を脚に滑らせる。
「ネストル様はわたくしを愛してられるの?」
視線を上げずに聞いたが、返事はなかった。ラフィーナは構わずに続ける。
「お兄様はわたくしを愛しているからするのだとおっしゃっていたわ。だからわたくし、」
ーー痛くても我慢したの。
出そうになった言葉を呑み込んだ。これは言ってはいけないこと。兄がすごく怒ったから。ハッとした。こんな顔をしてはいけない。笑わなければ。そうじゃないと怒られる。
もう片方の靴下も履き終え、足を下ろす。少し頑張って口角を上げて顔を上げた。ネストルはいつもよりも冷たい目をしていた。
怒っている。自分が笑わなかったから。背筋が寒くなり、謝罪をしようと口を開いた時、ネストルの視線がさらに鋭くなった。
「笑うな」
ラフィーナの目が大きく見開かれ、浮かんだ笑みが消える。ネストルを見つめる瞳は揺れていた。
笑ってはいけない? 笑ったから怒っているの? どうして? 分からない。
「それは愛ではない。もっともかけ離れたところにあるものだ。お前の兄はお前を愛してなどいない」
兄が自分を愛していない? あれは愛ではない?
そんなはずがない。
「お、お兄様は、わたくしを愛しているとおっしゃったもの」
声が震えていた。ラフィーナは兄の愛を疑ったことなどない。兄は自分を大切にしてくれて、誰よりも自分を愛していているものだと思っていた。何故なら兄がそう言っていたから。
「ならば何故お前の嫌がることをする」
鋭い目。鋭い声。だけどそれはいつもとはどこか違って、何かの感情が漏れているようだった。
「そんな、わたくし嫌だなんて……」
思ったことないわ。そう言った声は今にも消えてしまいそうだった。分からなかった。ネストルが何に怒っているのか。何を思っているのか。自分はなんと答えるのが正解なのか。
「嘘をつくな。嫌かどうかなどお前の顔を見たら分かる」
そんなことを言われても。お兄様はわたくしを愛してくれていただけ。それを嫌だなんて言えるわけがない。
ふるふると首を振る。分からない。
「……あれはいいことなのよ」
「それはお前の兄の言葉だろう」
ラフィーナの言葉はピシャリと捨てられた。ラフィーナの目に戸惑いが浮かぶ。ネストルは真っ直ぐに、容赦ない視線をラフィーナへ向け、はっきりと言った。
「私はお前の心を問うている」
「わ、分からないわ……」
何も分からない。誰かに教えてもらわなければ分からない。何が良いことで何が悪いことで、何が正しくて何が間違っているのか。
ネストルはラフィーナから視線を逸らさない。ラフィーナも逸らせなかった。鋭い視線から逃れたいと思っても体が動かない。
「分からないなどという言葉で誤魔化すな。偽るな。逃げるな。恐れるな。お前はお前の足で立ち、お前の頭で考え、お前の心で感じねばならぬ」
少し強くなった語気に、ビクリと肩が震えた。
「お前の心も言葉も父や兄のものではない。俺のものでもない。お前だけのものだ」
鋭い射抜くような目。だけど真摯な目。ラフィーナの瞳が揺れる。ネストルは一度息をつくと、静かな声を重ねた。
「俺はお前の心が知りたい、ラフィーナ」
何かが震えたような気がした。手か、体か、心か。それに触発されたように鼻の奥がツンとし、涙が一つこぼれた。
冷たい声。なのにその冷たい声が呼んだ自分の名は確かな温かさを持っていた。
「私」ではなく「俺」、「王女」ではなく「ラフィーナ」と呼んだ、そこにネストルの心があるのだろうか。
そう思うとそれに応えなければならないような気がした。唇が震えた。絞り出した声は掠れていた。
「……痛くて、怖くて、苦しかったの」
胸に当てた手に規則的な、速い鼓動を感じる。こんなこと言ってはいけないのだと思っていた。思うことすらもいけないことだと。だから自分の気持ちを塗り替えて笑んでいた。ネストルの言う通り、あれは兄の笑みだ。
「わたくしは、嫌だった、と、言っても、いいの……?」
途切れ途切れの言葉になった。本当に言ってもいいのだろうかという戸惑いと、怒られたらどうしよう、という不安で。
涙で濡れた目でネストルを見上げる。ネストルはおもむろに頷いた。
「お前がそう感じたならそう言えばいい」
ラフィーナの大きな目から涙がはらはらとこぼれる。悲しいわけではない。なのにどうして涙が出るのだろう。自分は今どんな感情なのだろう。濡れた頬に触れ、考えるが分からない。
「……わたくしは、どうして泣いているの?」
俯いてポツリと落とした問いに、静かな声が応えた。
「それはお前だけの感情だ。俺には分からぬ。お前がこれから知っていくものだ」
どうしてだろう。いつもと同じ冷たい顔で、いつもと同じ鋭い声で、答えを示してくれたわけでもない。それなのに、それは自分を導いてくれているような気がした。
ネストルはラフィーナの前に膝をつく。手が足に触れ、靴下越しにネストルの優しさを感じる。されるがままになっていると、ネストルは持ってきた靴をラフィーナの足に履かせた。
窮屈さに身構えたが、右足、左足、と包まれても思っていたものは襲って来なかった。足にぴったりであるのに、窮屈ではない。少し動かしてみたが痛くもない。
驚きを隠せずにネストルを見ると、ネストルは立ち上がりながら言った。
「柔らかい革で作らせた。お前の足を傷付けることもない」
自分のために? ネストルが?
もう一度靴へ視線を落とす。これだったらそんなに嫌ではないかもしれない。
「共に来い」
その言葉に顔を上げると、ネストルの真っ直ぐな目が見えた。部屋から出たくなかった。他の人に会いたくなかった。だけどそんなことすらも忘れて頷いていた。




