32.怒りの心
椅子に座り、足を伸ばす。血が滲み、腫れた踵とつま先、靴の跡が赤く残る足の甲。痛みは明らかに自分のものなのに、足は自分のものでないように重い。
「皆大変な思いをして靴を履いているのね」
やっと解放された足。それでもずっと痛くて熱い。靴を脱いだラフィーナの足を見た侍女達が静かに、だけど慌てた様子で部屋を出て行った。
「慣れるとそこまででもありません」
イリスが困ったように笑う。
「ラフィーナ様はこれまでほとんど靴を履いたことがないので、肌がとても柔らかいのです。ゆっくり慣れていきましょう」
イリスの言う通り、ラフィーナがまともに靴を履いたのはレガルディア城へ来た時だけだった。だけどあの時はここまでではなかった。そう言うとイリスは「靴の違いでしょう」と言った。
「あの時履いていたのは急いで用意した簡単なものでした。ですがこちらに用意されたものはラフィーナ様の足に合わせて作られています。その分擦れてしまうのではないかと思います」
自分の為に作られたものがかえって自分を傷つけるとは。外の世界って難しいのね、と思う。
ノックと共に侍女が一人入って来て、椅子に座るラフィーナの足元に膝をついた。
『失礼致します』
軽い力で触れられた足。くすぐったさと痛みに目を細めながら、手当をする侍女の手を眺める。
狭い世界は居心地が良かった。父や兄の言うことだけを聞いて暮らしていれば良かった。怖いことも嫌なことも少なかった。だけどここでは自分で考えろと言われる。外を歩けば好奇の視線に晒され、靴を履けば苦行のよう。何も分からないし、ネストルは相変わらず怖いし、厳しい。
「……でも多分優しい方だわ」
小さく呟いた声に侍女が顔を上げた。なんでもないわ、と首を振る。
外にはいいこともたくさんある。花は綺麗で太陽は温かい。部屋の中では見られない人達の別の顔を見ることもできる。新しいことを知れば心が弾む。
視線を巡らせると窓の側に綺麗に飾られた花が見えた。太陽の光を浴びて眩いほどに輝く彩豊かな花。それで思い出した。
「ねえ、イリス、お花を少しタリア様へ持って行ってもらえないかしら? 本当はわたくしが行きたいのだけど今日はもう歩けないわ」
イリスは無言で頷き、花を数本持って出て行った。ラフィーナの足の手当てをしていた侍女が立ち上がる。
この侍女はラフィーナの部屋に出入りする中でも年嵩の侍女で、皆のまとめ役のような立場らしい。ほんの少し寒さを感じただけで、何も言っていないのに上着を用意してくれたり、喉が渇いたわと思えば、やはり何か言う前にお茶を淹れたりしてくれる。細やかで気遣いのできる侍女。
そんな彼女はいつも穏やかな微笑みを浮かべているが、イリスの出て行った扉を見るその表情は微かに曇っているように見えた。
『どうしたの?』
尋ねると侍女は視線をラフィーナへ向け、眉を下げた。
『ラフィーナ様、あのような時は咎めなければならないのですよ』
『あのような時? 何のお話をしているの?』
よく理解ができなくて首を傾げると侍女はふう、と小さなため息をついた。
『イリス様のことです。主人にお願いされた時は、かしこまりました、と受けるのが侍女の礼儀です。あのように返事もしないなどとてもではありませんが侍女失格です』
聞いてもよく分からない。ラフィーナはきょとんとして侍女に聞いた。
『イリスはお返事してたじゃない』
ラフィーナはイリスが頷くところを見た。しかし侍女は「違います」と首を振った。その声が鋭くて、目が冷たくて、体が強張った。
『イリス様は頷いただけです。あれでは返事とは言えません。侍女の躾は主人の仕事です。きちんと躾けてください!』
ピシャリと言われた言葉にラフィーナは声を出すことができなかった。いつも穏やかなこの侍女がこんな風に声を荒げるなど、思いもしなかった。
『城で働きたい娘はたくさんいます。あの程度の礼儀作法では本来なら城へ上がることも許されません。いっそのこと遠ざけてしまった方がよろしいのでは?』
『遠ざける……?』
小さな声で聞いたラフィーナに、侍女は苛立ちの混ざった声で言った。
『もうこのお部屋には入れないと言うことです』
ラフィーナは驚きに目を見開いた。どうしてそんな酷いことを言うのだろう。今までは何も言わなかったのに。
『い、嫌よ』
震える声で言ったが、侍女は聞こえなかったのか、聞こえていて無視したのか、さらに語気を強めて言った。
『そもそもドラウゼンは敗戦国。そんな国の貴族がレガルディア城にいることがおかしいのです。ラフィーナ様には私たちがついています。彼女は必要ありません!』
『やめて……!』
自分でも驚くほどに大きな声が出た。いや、他の人からすればそれはたいして大きくもなかったかもしれないが、ラフィーナにとっては自分から出た声だと一瞬分からないほどだった。
『わたくしはイリスがいいの……!』
ばあやが離宮を出て行ってからずっとイリスが一緒にいてくれた。喋ることができなかったイリスだけど、掃除も洗濯も、鳥にあげていい食べ物も教えてくれた。イリスが側にいるのは当たり前。いない時でもつい話かけてしまいそうになるくらい。そんなイリスがいなくなるなんて耐えられない。
『イリスが必要ないなんて、酷いことを言わないで!』
悲しいわけでもないのに涙が出た。胸の中で何かが暴れていて、それが口から言葉となって出る。そんな感覚。
こんなことを言ったらきっとばあやは怒るわ、と思う。だけど止められない。
『わたくしはイリスがいいの。必要ないのはあなたの方だわ』
侍女はカッと顔を赤くし、目を吊り上げた。
『あんな侍女しかいないから靴を履くこともできない、無知で変な王女になったのです!』
ガツンと頭を殴られたような衝撃があった。涙で霞む視界で目の前の侍女を見る。下唇が震える。
『……あなたは優しい人なのだと思っていたわ。だけど外の人たちと同じようにわたくしを変だと言うのね』
ショックだった。柔らかな言葉を投げかけてくれていた侍女。穏やかな微笑みに隠した心は他の人と同じだった。くすくすと囁く人達のように自分を変だと思っていたのだ。
侍女は、ふん、と鼻を鳴らす。
『私だけでなく皆思っています。だってそうでしょう? 自分の感情すらも言葉で表せず、簡単な言葉の意味も分からない。薔薇に棘があることも知らずに、靴も履いたことない? そんな方ラフィーナ様以外にいません。誰だって変だと思います』
同じ厳しい顔と鋭い声だけど、ネストルとは全然違う。明らかな悪意が感じられた。はらはらと落ちる涙が服にしみを作る。
侍女は言葉を止めず、いかにラフィーナやイリスがおかしいのかをまくしたてる。
「……もう嫌」
震える唇の隙間から小さな声が漏れた。
外の世界はなんて冷たく、怖く、悲しいのだろう。春の空気に、花の美しさに浮かれていた。こんなことなら外になんて出なければよかった。嫌な気持ちになる度に思ったこと。だけど今度ばかりはもう堪えられない。
ずっと部屋の中にいればよかった。誰の悪意に晒されることもなく、自分がおかしいことに気付くこともなく。あの閉じた離宮でイリスとばあやとずっと静かに穏やかに暮らしていたかった。
そう思った瞬間、ネストルの顔が脳裏に浮かんだ。外へ出て色々なものを見ろと言った人。世界を知ることは自分を知ることだと言った人。
「……その通りだわ」
ネストルは間違っていなかった。よく分かった。自分のこと。
胸に渦巻く激しい熱。心の全てを燃やしてしまいそうなその感情の名前を、ラフィーナは知っている。やっと名前と心が一致した。
「これが怒りなのね」
小さく呟き、ラフィーナは涙を流しながらも、視線を上げて侍女を見た。侍女の言葉はまだ止まらない。侍女はもはやラフィーナを敬うような態度すら見せない。むしろ立った侍女は座っているラフィーナを見下しているようにも見える。
『無能な侍女など早く追い出しなさい。私たちがラフィーナ様を立派な王女にして差し上げ』
『出て行って!』
『……は?』
心に刺さるその言葉を遮ってキッと睨む。ラフィーナは両手をギュッと握った。爪が手のひらに食い込んで少しの痛みを感じる。それを無視して力いっぱい叫んだ。
『あなたの言葉なんてもう聞きたくないわ……!』




