31.スズラン
腕に花を抱えて城内を歩いていると、あちこちからくすくすと笑う声が聞こえた。部屋から出る度に聞こえる、馬鹿にしたような笑い。ラフィーナはまただわ、と少し俯いた。
『裸足だわ』
『可愛らしいお方だけど、品がないと台無しね』
『やっぱり氷月の方は婚約者の身の回りすらも整えないのね』
廊下の冷たさを感じる足。先程までそれが心地良くも思えていたというのに、今は凍えるほどの冷たい。立ち止まると、クレイトスも少し遅れて足を止め、不思議そうにラフィーナを振り返った。
「靴を履くわ。お部屋に戻りましょう」
後ろを歩いていたイリスを振り返って言うと、イリスは少し驚きながらもこくりと頷いた。
「クレイトス、ネストル様のところへは後で行くわ。先に行ってちょうだい」
「突然どうされましたか? 靴は苦手なのでは?」
クレイトスが微笑みに訝しさを混ぜてラフィーナを見る。ラフィーナは曖昧な笑みを浮かべた。
「わたくしが靴を履かなければ、ネストル様も悪く言われるもの」
自分が『みっともない』とネストルのせい。いつもそう。婚約者とはそういうものなのだとようやく理解した。
クレイトスが笑みを深める。
「また何か聞こえたのですか? どこの方です?」
こうしている間にも様々な言葉が聞こえる。それは悪意をもってラフィーナを攻撃したり、雑音となって耳を抜けたりする。
「あの方達とあそこの方、それからあちらも」
聞こえる方向を手で示す。それぞれ目が合い、静かになった。彼ら、彼女らは目を見開いたり足早に去ったり、怯えた表情でクレイトスを見たりしている。
ラフィーナもクレイトスを見上げる。先ほどよりは冷たくないが、いつもよりは冷え冷えとした笑顔。
やっぱりお部屋の中だけでは何も分からないのね、と思う。クレイトスがこんな顔をするなんて。
「いいのよ。靴を履いていないわたくしがおかしいのだわ」
もう分かった。靴は履くのが当たり前で、履いていない自分はおかしい。それが世界の常識。苦手だなんて言っていないで履かなければならない。
何か言いたそうな顔をしているクレイトスを置いて、ラフィーナはイリスと共に自室へと足を向けた。
足を踏み出す度に痛みが走る。ゆっくりと歩いてもそれは変わらない。
「ラフィーナ様、大丈夫ですか?」
隣を歩くイリスが心配そうな視線をラフィーナへ向ける。ラフィーナ「ええ」と頷いたものの、あまり大丈夫ではなかった。
「どうして皆こんな物を履いてられるの? 締め付けられて、歩く度に擦れて痛いわ」
眉をひそめるラフィーナに、イリスも「そうですよね」と頷いた。
「私もラフィーナ様の離宮を出て靴を履いた時は、窮屈さに驚きました。それまでは履くことが当たり前だったのに」
ふふっと笑うイリス。ラフィーナは少しだけホッとした。
「イリスもそうなのね」
そう感じるのが自分だけではないことに。きっと皆我慢して靴を履いているのだわ。わたくしも頑張らないと。そう思った。
ネストルに渡す為の一本の白い花を持って歩く。イリスの記憶を頼りに、廊下を進んだ。
「恐らくこの辺りですが……」
イリスの言葉にラフィーナは目の前に並ぶ同じ扉を見た。端から扉の数を数える。
「……しち、はち。確か8番目よね?」
イリスは頷く。だが浮かない表情だ。
「ですがこの場所の8番目の扉なのかは自信がありません」
そうよね、と思う。イリスよりも何回も来ている自分も全く分からないのだ。同じ景色ばかりで違いも分からない。扉の向かいの窓を覗いてみるが、やはり分からない。
「とりあえずノックをしてみましょう」
違ったらその部屋の人にネストルの部屋の位置を聞けばいい。深く考えずにノックをしようと手を上げた時、ゆっくりと扉が開いた。ぶつからないように慌てて下がると、くすくすと笑う声が聞こえた。
「どうぞ」
可笑しそうに笑うクレイトスが顔を出した。会話が聞こえていたのだろうか。ということはネストルにも聞こえていたということ。少し恥ずかしくなって微笑みで誤魔化した。
中に入ると、若い男の人が二人、ネストルの机の前に立って、こちらを振り向いていた。ネストルはいつもの椅子に座ったまま、部屋に入ったラフィーナ達を見る。
「誰がいるか分からん部屋をノックしようとするな」
呆れた声だった。ラフィーナは「はい」と頷き、自分を見る若い男達を見た。
「わたくしお邪魔してしまったかしら? お客様がいらっしゃるとは思わなくて」
男達の目は興味深そうにラフィーナを見ている。訳もなくそわそわして、手に持った花の茎を指先で撫でた。
低い声が言った。
『ジロジロ見るな。不躾だ』
『もっ、申し訳ありません……!』
『大変失礼いたしました!』
男達が勢いよくネストルへ跪いた。下に向けた顔は見えないが、手が震えているのが見える。怯えている。他の人もネストル様は怖いのね。なんてことを考えていると、ネストルは「それで」とラフィーナに鋭い視線を向けた。
「お前は何をしに来た」
体の奥底まで凍ってしまいそうな声。怖いけれど前のように体は震えない。そう嫌でもない。これがネストルなのだとなんとなく分かったから。
「これをネストル様へ差し上げようと思って来たの。お庭のお花はとても綺麗だったわ」
机の前に歩み出て、手に持っていた花を差し出すと、ネストルは少しの間無言でそれを見つめ、だがゆっくりと手を伸ばした。受け取ってくれたことにホッとして手を引く。ネストルは何を考えているのか、持った花をじっと見ている。
「薔薇のお礼になるかは分からないけれど、お部屋に一つでもお花があればきっと寂しくないわ」
ネストルはいつも一人でここにいる。皆が寝静まった闇の中でも。その心を少しでも慰めたい。
ネストルは「スズランか」と小さく言うと、クレイトスの方へと差し出した。
「……私の部屋に飾っておけ」
「ネストル様の部屋、ですか……?」
クレイトスが不可解そうな表情で花を受け取る。ネストルの意図を図りかねているのか、その目はじっとネストルの顔を見ている。
「ニ度も言わせるな」
「……かしこまりました」
クレイトスが頭を下げ、出て行った。ラフィーナは跪いたままの男達を見て、邪魔をしてはいけないわ、と思う。
「わたくしはお部屋に戻るわ。お邪魔をしてごめんなさい」
ネストルが頷くのを見て背中を向ける。正直なところ、足が痛くて早く靴を脱ぎたかった。痛みを我慢して足を進めるが、ふらりとよろけてしまった。
イリスが咄嗟に支えてくれ、転ぶことはなかったが、やっぱり靴というのは苦手だ。小さくため息をついて部屋を出た。扉が閉まる直前、ネストルと目が合ったような気がした。




