30.花と悪意
翌日、ラフィーナは前庭に出た。ネストルが言った通り様々な色が咲き乱れている。ラフィーナは頬が緩むのを抑えられずに花々の中へと足を進めた。
「これは薔薇ね。こっちはなあに?」
「品種は違いますがそちらも薔薇ですよ」
「このピンクの大きなお花は?」
一つずつ指さして聞くラフィーナにイリスが答える。「すごいわ」とラフィーナが褒めると、イリスは「勉強しましたので」とどこか照れくさそうな笑みを返した。
春の日差しの中、絢爛たる花々に囲まれ、ラフィーナは穏やかな高揚感を感じた。白い石の地面は冷たく、だけど柔らかな日のおかげか、それが心地良くもある。ラフィーナは軽やかな足取りで歩く。くるりと回るとスカートが広がった。
心が浮き立つ。ここが美しいことは知っていたはずなのに、自分はどうしてもっと早く外に出なかったのだろう。少し後悔した。
「後でタリア様へお花を持って行ってあげましょう」
毎朝部屋に来るタリアが今日は来なかった。昨夜の涙で濡れた声が甦る。綺麗な花を見たらタリアもきっと元気になる。
「ラフィーナ様、お待たせしました。鋏を借りてきましたよ」
「ありがとう、クレイトス」
クレイトスは持っている鋏をイリスへと手渡した。
「申し訳ありません、用事ができましたので少しの間離れます。ネストル様のご許可があることは庭師に伝えておりますので」
「分かったわ」
クレイトスは頭を下げるとどこかへと歩いて行った。すらりと伸びた背を見送ってラフィーナはそっと薔薇に触れる。しっとりとした花弁が指先に吸い付くよう。
「ネストル様はお花はお好きではないかしら?」
花の見頃を教えてくれたネストルへお礼に。しかしネストルは花を見てもきっと表情一つ変えない。ラフィーナはそのくらいにはネストルの性格を把握していた。
「……だけど」
ポツリと呟く。花が一輪でもあればあの寂しい部屋も少しは明るくなる。
「いらないならいらないとおっしゃる方です。大切なのはお気持ちです。後で持って行ってみましょう」
イリスはそう笑った。イリスの言う通りだわ、と思う。いらないなら持って帰ればいい。一際綺麗な花を選び、イリスに切ってもらう。ラフィーナはそれを腕に抱え、ふふっと笑った。微かな香りが鼻腔をくすぐる。幸せの香りだわ、と思った。
『まあ……! 皇家の花を摘んでいる方がいらっしゃるわ』
大きな声に、ラフィーナはビクリと体を震わせた。振り返ると綺麗な服を着た女が数名立ってラフィーナを見ていた。
『ここの花はエレンシア皇家の方達の物よ。あの方々以外の誰も摘むことは許されていないわ』
一際気の強そうな、先頭に立つ女がラフィーナを睨む。『そうよ』と周りからいくつもの声が上がった。ラフィーナは驚いて女を凝視した。ヒソヒソと囁かれはしたがこうして話しかけられたのは初めてだ。何も言えずにいると、女は嘲るような笑みを浮かべた。胸がざわざわする。
『他所から来た王女様はそんなことも教えてもらっていないのね』
『和平の為のただの道具だもの。それとも、ご自分も皇家の人間のおつもりかしら?』
『あり得ないわ。こんなおどおどした方があの方々と同じ血を引くなんて考えられないもの』
口々に言われる言葉にラフィーナは首を傾げた。言葉を聞き取ることはできるし、あまり友好的ではないのは分かるが、その内容がよく理解できない。
あの方々と同じ血……? わたくしが?
文脈から『あの方々』がエリオス達三兄妹を指すことは分かる。だが自分が同じ血を引くとは一体どういうことだろう。そんな噂があるのだろうか。同じ色を持っているからだろうか。
先頭の女がハンっと鼻で笑った。
『血も涙もない悪魔と裸足の貧相な他国の王女。お似合いじゃない』
『そうそう、それに無邪気と下品を履き違えた花嵐の方もね』
『花嵐の方』。誰のことだろう、と思う。この方達は何のお話をしているの? とイリスに聞こうとしたが、そんな隙はなかった。
『太陽のお方の邪魔にならないよう端で丸まっていればいいわ』
『そう心配しなくてもすぐに氷月の方に殺されるわよ。その花を摘んだことをお怒りになるかもしれないわね』
次々と紡がれる言葉。もはやラフィーナには誰がどれを言ったのかも分からなくなっていた。締め付けられた胸の苦しさに、意識して息を吸う。
『幸が薄そうなお顔ですものね』
くすくすと皆が笑う。嫌な雰囲気は感じるが、言われていることが悪口なのか、ラフィーナには分からなかった。どうしたらいいのか分からなくて振り向いてイリスを見る。だがイリスは青く、強張った顔で固まっているだけ。
言いようのない思いが胸に渦巻く。その感情の名前を掴めないまま、ラフィーナは口を開いた。
『お花を摘む許可はネストル様にいただいているわ』
少しだけ震えていた。女達の目が見開かれ、みるみるうちに顔色が悪くなっていく。
『あなた達はわたくしのことが嫌いなの? だから嫌なことを言うの?』
疑問をぶつけたラフィーナを、気の強そうな女は真っ青な顔のまま、キッと睨んだ。
『あ、あなた、帝国語は分からないのでは……!?』
分からないなんて一言も言っていない。どうしてそう思ったのだろう、と不思議に思いながらもラフィーナは、ぎこちなくも微笑みを浮かべた。
『お勉強したもの』
首を傾げる。腕に抱いた花が頬をくすぐった。
『氷月の方とはネストル様のことよね? どうして酷いことを言うの? ネストル様が聞いたらきっとお心を痛めるわ』
『……っあなた、脅しのつもり?』
端に立つ女が硬い声で言った。ラフィーナにそんなつもりはない。本当にそう思って口にしただけのこと。ふと思い出した。嫌なことを言われたらクレイトスに言うように、とネストルに言われたこと。
『これはクレイトスに言った方がいいのかしら?』
イリスを振り返って聞いた。イリスの顔色は先ほどに比べると良くなっている。イリスが何か言おうと口を開く。だが別の声にかき消された。
『告げ口なんてしてみなさい……! その時はあなたを』
「お待たせしました」
先頭の女の張り上げた声に穏やかな声が重なり、女の言葉は途切れた。
「我が国の貴族が無礼を働きました。申し訳ありません」
「クレイトス」
声の方を見るとクレイトスがこちらへ歩いてきていた。目の前の女達に気を取られて全然気が付かなかった。それは女達も同じだったようで、皆一様にクレイトスを見つめ、蒼白になっている。クレイトスは穏やかな笑みをラフィーナへ向けた。
「お気になさることは何もございません。ネストル様がいいとおっしゃったのですから。欲しい花があればお好きなだけ摘めばいい。あちらでも綺麗に咲いていましたよ」
クレイトスはイリスの手から鋏を取る。そして女達など視界に入らないかのように、ラフィーナの背中にそっと触れ、別の方向へと誘導した。
促されるまま歩く。背中に触れている手からはじんわりと体温が伝わってきて、硬くなっていた心が少しずつ解けて行くような気がした。
ほうっと息を吐き、クレイトスを見上げる。いつもと同じような笑顔。だけど少し違う。……そう、目が違う。いつもは穏やかなのに今は鋭さが見える。
「怒っているの?」
クレイトスはラフィーナを見て少し驚いたような表情を浮かべた。
「分かりますか?」
「怒っている、と言ったネストル様と同じ目だわ」
そう言うとクレイトスはふふっと笑った。それだけ。
『も、申し訳ありません、クレイトス様!』
『クレイトス様、どうかご慈悲を……!』
いくつもの悲痛な声が背後から聞こえ、ラフィーナは思わず振り向きそうになった。背中の手に僅かに力が入り、それを阻止する。
「お気になさることはございません」
先ほどと同じ言葉だった。少し硬い声にラフィーナは違和感を覚えながらも「ええ」と頷く。目だけでクレイトスの顔を盗み見る。心臓が跳ねた。とてつもなく冷たい表情だった。
ぱっと視線を逸らす。冷たいネストルはもうあまり怖くない。だけどいつも穏やかなクレイトスのその顔はすごく怖い。
「……お花を持って行ったらネストル様は喜ぶかしら?」
高く鳴る心臓を誤魔化すようにラフィーナは小さな声で言った。クレイトスの顔はもう見られない。
「ええ、すごく喜ばれますよ」
返ってきた声はとても柔らかかった。




