29.謝罪と罪
静かな時間が流れた。ネストルはずっと机に向かって舌打ちをしたり何かを書いたり。ラフィーナはソファに体を預けたままそれをじっと見ていた。
カップの中のお茶が全てなくなった頃、微かな足音が聞こえた。クレイトスが来たのかと思ったが、それにしては軽すぎる。扉へ視線を向けるラフィーナに気が付いたのか、ネストルも顔を上げた。
「なんだ」
耳を澄ます。普通の人とは違う足音。軽くて、ゆっくりで、小さくて、まるで浮いているような……
「タリア様だわ」
「タリア?」
視線をネストルへ向ける。眉をひそめたネストルはペンを置いた。
「何故お前達はこんな時間に来るんだ……」
小さな呟きと共に控えめなノックが聞こえた。
『兄さま、いる?』
低く、小さな声。いつもの明るさはなかった。理由は扉越しであるからだけではないだろう。ネストルはちらりと目だけでラフィーナを見て、小さなため息と共に応えた。
『……なんだ』
『入ってもいい?』
『駄目だ。兄妹とは言えお前はもう子供ではない。こんな時間に会うことなどできぬ』
沈黙が降りた。扉の向こうでタリアが動く気配がする。ネストルは変わらない声で『用件は』と話を促した。
『お昼のこと謝りたくて……』
お昼のこと。タリアの様子がおかしくなったあの時のことか。あの時何があったのだろう。
『必要ない。謝るべきは俺で、お前じゃない。悪いことをしたと思っている。お前にも兄上にも……母上にも』
聞きながらラフィーナは、ネストル様の帝国語って新鮮だわ、と思う。
『違う、違うの……』
今にも泣き出しそうな震えた声だった。
『ごめんなさい』
『謝るな。悪いのは俺だ。お前が俺を責めて、謝る理由などない』
扉越しの会話。タリアの顔は見えないが、その声から表情が浮かぶ。きっと今、扉の向こうにあの花が咲くような笑顔はない。
『違う、違うの』
また同じ言葉。鼻を啜る音も聞こえる。泣いているのかしら、と思うと、思わず腰を浮かしていた。抱きしめてあげたい。
ネストルの視線がこちらに向き、それを止められたような気がした。ラフィーナは大人しくソファに座り直す。
『あたしそんなつもりじゃなかったの。ごめんなさい、兄さまを責めたり傷付けたりしたかったわけじゃないの……』
『分かっている。お前に悪意がないことも、深く考えずに発したことも、母上に会いたいと思っていることも』
扉の向こうでタリアが息を呑む気配があった。
『ちがっ……!』
そうだ、あれは母親の話をしていた時だった。ネストル達の母親の話はほとんど聞いたことがない。重力の魔法は母親からの遺伝だということくらい。会ったことはない。どこにいるのかも知らない。
タリアも会ったことがないって言っていた。もしかしたらもういないのだろうか。自分の母と同じように。
『違うの、ごめんなさい、本当に、ごめんなさい……!』
半ば叫ぶような、涙に濡れた声。ネストルは驚くほどに無表情。昼間と同じ、感情を全て排したような顔。いつもの冷たさすらもない。
『謝るな。俺は自らの罪から逃げる気などない。……お前や兄上にそのように気を遣われたくもない』
一瞬だけ、ネストルの無表情が歪んだ。「これなら責められた方がマシだ」と、声にならない言葉が口から漏れた。ラフィーナの耳はそれを拾った。
『罪なんて、そんなのじゃない! あたしだって兄さまが、ネストル兄さまがいなかったらきっと同じことをしてたもん!』
『だからなんだ。ここにあるのは俺の罪だけだ』
その時、近付く足音がもう一つ聞こえた。
「クレイトスが来たわ」
小さな声で呟く。ネストルは表情を変えずに静かに言った。扉の向こうからはぐすぐすとタリアの泣く気配がしている。
『タリア、お前の言いたいことは分かった。俺はなんとも思っていない。気にする必要はない。話は終わりだ。クレイトスに部屋まで送ってもらえ』
『……うん』
その返事からまだ何か言いたそうな間を感じた。しかし、すぐに扉の向こうからクレイトスの驚いた声がして、二人分の足音が遠ざかって行く。
ラフィーナは立ち上がるとお茶をもう一杯ネストルの前へと置いた。ラフィーナはソファへは座らず、お湯の少なくなったポットを手に取った。
ずっとここにあるのに傾けて出るお湯は湯気が立っている。どうやって熱さを保っているのかしら、と色々な角度から眺めてみる。離宮にいた時はお茶を淹れる度にお水を火にかけていたのに。
「一体どうなっているのかしら……」
「……魔法だ。中に入れた物は温度が保たれる」
答えを期待していたわけではなかった。だがそれだけに返事があったことが嬉しかった。ラフィーナは笑みを浮かべ、ポットを持ったまま振り返った。
「じゃあ冷たいものもそのままにできるの?」
「そうだ」と簡潔な答え。思わず「すごいわ!」と声を上げていた。
「それなら暑い時にもすぐに冷たいものが飲めるのね! 魔法ってなんてすごいの……!」
明るい声で言ったラフィーナだが、ネストルはカップに口をつけ、苦々しい表情をした。お茶が美味しくなかったのかもしれない。だけどさっきと同じように淹れたはず。
ネストルはカップを置くと「魔法とは」と静かな声で言った。
「魔法とは恐ろしいものだ。いいことばかりではない」
「そうなの?」
「ああ」
そういうものなのか。再びソファに座り、体を預ける。何も考えずにひたすらにぼうっとしてクレイトスの戻りを待った。少ししてネストルが口を開いた。
「何も聞かないのか?」
何の話かと首を傾げると「タリアとの会話のことだ」と付け加えられた。話の内容はよく分からなかった。自分の知らない何かがある。だけどそれを聞こうなんて思わない。
「言いたくないことは言わなくいいって、エリオス様がおっしゃってたわ」
言いたくないなら言わなくていい。自分も聞かない。エリオスやクレイトスから学んだことだった。ラフィーナの答えにネストルは「そうか」と、吐息と共に漏らした。安堵したように見えた。
近付いて来る足音が聞こえ、立ち上がる。
「今夜お前がここにいたことは誰にも言うな。タリアとの会話も聞かなかったことにしろ」
「ええ」
頷いて扉を開く。薄闇の中でクレイトスが足を止めたのが見えた。ラフィーナはもう一度ネストルを見て「おやすみなさい」と微笑んだ。「ああ」と素っ気ない返事。扉を閉めようとすると、小さな声が聞こえた。
「前庭の花は見頃だ。好きなだけ摘んでいい」
思わず視線を上げてネストルを見た。ネストルは書類に視線を落としたまま。自然と頬が緩んだ。「ありがとう」と小さく言って扉を閉めると、ラフィーナは闇に包まれた。
「クレイトス、ごめんなさい、お部屋まで連れて行ってもらえるかしら?」
「は、はい……」
クレイトスの驚きと戸惑いの混ざった声が答えた。
「ラフィーナ様、いつからそちらに……? もしやタリア様との」
クレイトスの言葉を「いいえ」と遮った。
「今夜わたくしはここへは来ていないの。ベッドで幸せな夢の中よ。何も聞いていないわ」
口の前で人差し指を立てる。少しだけ薄闇に慣れた目でクレイトスを見上げると、クレイトスは「左様でございますか」と笑みを浮かべた。




