28.示された道
「それで、何故ここにいる」
「えっと……」
歩いている間に頭の中から消えていた、部屋を出た理由を思い出す。ネストルが月の光のようで、自分はどうしたらいいか分からなくて……そう、聞きに来たのだ。
バラバラになっていた記憶が頭の中で繋がった。
「ネストル様に教えてもらいたくて」
扉の前に立ったまま言うと、ネストルは椅子に腰掛けてラフィーナを見た。鋭い目に貫かれ、少し体が強張るが、ネストルのこの目にも随分と慣れた。
「何を」
短い言葉。
「分からないの。わたくしがあの離宮から出てはいけなかった理由も、お父様がわたくしに何を望んでいるのかも、これからわたくしはどうしたらいいのかも」
ネストルは眉を寄せる。怒ったかしら、と思ったが、ネストルは声を「茶を淹れろ」と静かに言った。ラフィーナは頷いて茶器を手に取る。
「このお城には子供もいるのね」
お茶を待つ間、そう言うとネストルは「子供なんていない」と怪訝そうな顔をした。
「一番歳が若いのはタリアだ。子供なん……」
不自然に言葉が途切れた。ネストルの目がいつもよりも少し丸くなっている。ラフィーナは首を傾げた。
「お前、あれに会ったのか?」
あれ? ネストルの言うあれが何を指すのかははっきりしないが、恐らくシメオンのことだろう。「ええ」と頷くと、ネストルは少し考えるような素振りを見せ、「そうか」とだけ言った。
コポコポとお茶の音が響く。カチャ、と机に置くと、ネストルは視線だけでソファを指す。座れということだろうか。自分の分のお茶を持ってソファへ腰掛けると、ネストルは無言でカップに口をつけた。
ラフィーナも一口飲んで、お昼よりは上手く淹れられたわ、と思う。色も味も香りもイリスの淹れるものに近づいている。嬉しくて頬が緩んだ。
カチャ、とカップの音がして顔を上げる。ネストルは深く息を吐いて言った。
「私はお前の質問に答える気はない」
「どうして?」
期待と違う言葉にラフィーナはがっかりするよりも先に不思議な気持ちになった。意地悪なのかしら? と少しだけ思う。しかし嫌な感じはない。
「お前が自分で考えることだからだ。私が答えを提示したところで、お前の中で絶対のものが父親から私に変わるだけだ」
それの何がいけないのだろうと思う。だって自分はネストルと結婚する。結婚はずっと一緒にいることだとエリオスは言っていた。
「それではいけないの?」
「何故いいと思う」
即座に返された問いにラフィーナは言葉に詰まった。何故も何も、自分はそうやって生きてきたし、これからも生きていくのではないのだろうか。
「お前はお前のしたいようにすればいい。私の言葉も兄上の言葉も聞く必要はない」
昼間にも言われた言葉。その意図をラフィーナは掴めない。
「わたくしのしたいように……」
呟くと「そうだ」とネストルが頷く。それは言葉通りに受け取ってもいいものだろうか。
「ならばネストル様と結婚しなくてもいいの?」
まさかそんなわけはないだろうと思いながら口にした問いだったが、ネストルは再び「そうだ」と頷いた。それに一切の迷いは見えなかった。
驚いて目を丸くするラフィーナに、ネストルは重ねて言う。
「お前が望むなら婚約も解消する。城を出たければ出ればいい」
「そ、れは……」
驚きよりも戸惑いが強い。戦争に負けたドラウゼン王国の王女である自分は和平の為の婚姻を結ぶ。それには人質の役割もあるらしい。ちゃんと理解している。
それなのに結婚はしなくていい、婚約も解消する、更には城を出ることまで許されるなど、戦敗国の王女としての役割を一つも果たす必要がないと言われているも同然だ。
「全てはお前が決めることだ」
ラフィーナはじっとネストルを見つめたまま固まった。そんなことを言われても分からない。どうしたらいいかなんて、どうしたいかなんて、何が正しいかなんて分からない。
ぞくりと背筋に何かが走った。
「……怖いわ」
思わずこぼれた言葉。ネストルは眉をひそめる。
「何が怖い」
「分からないわ。何も分からなくて、何が怖いのかも分からなくて、でも、それが怖いの」
視線が彷徨う。頭の中が“分からない”ばかりで埋め尽くされている。ネストルの真っ直ぐな目は、自分を責めているようにも見える。
「だから知るのだ。様々なものを見て、聞いて、その上で判断しろ。世界を知ることは自分を知ることでもある」
淡々とした声。感情の見えない顔。だけどそこにネストルの心がほんの少しだけ見えたような気がした。
「お前を縛るものは何もない。自由であればいい」
「だから、靴を履かなくていいと言ったの……?」
皆が履いた方がいいと言う中、ネストルだけは履きたくないなら履かなくてもいいと言った。
「だから外に出ろと怒ったの?」
分からないことだらけの自分に世界を見せるために。自分の心を知る為に。ずっと不思議だった。ネストルは自分に何も望まないと言った。なのに外へ出ることは強制した。皆が笑顔で諦めた中、ネストルだけが何故あんなにも怒ったのか。
「全部、わたくしの為だったの……?」
ネストルは微かに顔をしかめ、ラフィーナから視線を逸らした。
「違う。私の為だ。外に目を向けることも自分の意思もないお前を見ているとイライラする。全て私の為だ。私が私の苛立ちを解消する為に行ったことだ。自惚れるな」
いつもの鋭い声。突き放したような言い方。だが不思議と恐怖は湧かない。
どうしてかしら。ちっとも嫌な気持ちにならないわ。
ネストルの落ちた目とは視線は合わない。
「ネストル様は優しいって皆言うの。わたくしはよく分からないのだけど……優しいの?」
これがそれなのかしら、と思って聞いてみると、ネストルは心底嫌そうな表情で舌打ちをした。
「知らん。私に聞くな」
素っ気ない言葉。ネストル様でも自分のことで分からないこともあるのね、と思っていると、小さなため息が落ちた。
「……だが、守ると言う言葉を盾にして閉じ込めたり、愛を免罪符にして体をこじ開けたりするようなことは優しさではないと私は思っている」
「それは……誰のお話?」
首を傾げると、ネストルがゆっくりと視線を上げた。目が合った。薄い色の瞳。だけど深い瞳。
「分かるだろう」
ドキリとした。視線を下げる。全部見透かされている気がして。目を逸らしたら見えなくなるかと思って。
「……分からないわ」
細い声は震えていた。嘘だわ、と思う。だけどそれに頷くことはできない。こちらへ向く視線を感じる。心臓がうるさくて、下げた視線が定まらなくて。
「……まあいい。私がそう思うだけだ。お前はお前の言葉を探せ」
小さく頷くことしかできなかった。それを認めてはいけないと誰かが言っている。認めてしまっては全てが覆ってしまう。そんな気がして。




