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3.銀の髪

 レガルディア帝国。そこはラフィーナがいたドラウゼン王国の隣国で、10年前より戦争をしていた。それがこの度勝敗を決し、敗戦国であるドラウゼン王国は、和平の証として王女を差し出すことを求められた。


 馬車の中でラフィーナの向かいに座った、穏やかな笑みを浮かべた男がそう話した。ラフィーナの隣でジジョが頷く。しかしラフィーナには何も分からない。そもそも「戦争」という言葉が何を指しているのかすら知らないのだ。


 穏やかな声で話していた男は、微笑みを浮かべるだけで何の反応もないラフィーナを見て眉を下げた。その笑顔の意味も彼女には分からない。分からないままでいい。



「わたくしには何も話す必要はないのよ」



 静かだけど朗らかな声だった。説明をしていた男は目を丸くする。ラフィーナはそんな彼から視線を外して窓の外を流れる木々を眺めた。馬車が小さく跳ねる。身体も揺れる。その感覚がくすぐったくて、思わず頬が緩んだ。



「わたくしは何も知らなくていいし、何も考えなくていいの」



 父がそう言った。「お前は何も知らなくていい。私の言うとおりにしていればお前は幸せになれる」と。兄は言った。「お前は今のままが一番可愛いよ」と。


 彼女は父や兄の愛を疑わない。だから離宮から出たいなどと思ったことは一度たりともない。いや、一度だけあった。


 ラフィーナはばあやによって育てられた。言葉も掃除も洗濯も教えてくれた。そのばあやが5年前のある日、ラフィーナが起こしても起きなかった。いつもは早起きなのに、とラフィーナは首を傾げ、その後離宮を訪れた父にそのことを話した。そして父は寝ているばあやを外に連れて行き、ばあやはもう戻らなかった。


 その時だけは離宮を出てばあやに会いに行きたい、という思いが心をよぎった。ほんの少しだけ。しかし父が「新しい侍女がいる。ばあやにはもう会う必要もない。お前はここにいるのが一番幸せなんだ」と笑えばそんな気持ちなど初めからなかったかのように消えた。


 父がそう言ったから。父の言葉はいつだって正しいから。


 静かな微笑みを浮かべるラフィーナの表情には初めて離宮を出たことに対する感動や高揚感は一切ない。



「わたくしはお父様の言葉通りにするだけだもの」



 離宮を出る前に父がラフィーナにだけ聞こえる声で言った。「行ってくれ。少しだけだ。必ず迎えに行く」と。だからラフィーナは今馬車の中で揺られている。



「もう森を抜ける。顔を出すな」



 窓の外から平坦な声が聞こえた。自分と同じ色が目に入る。あの目に見られると何故か動けなくなる。ラフィーナは彼と目が合う前に窓から視線を逸らして膝の上に置いた自らの手を見た。


 ジジョが少し腰を浮かし、手を伸ばす。カーテンを引く音がして少しだけホッとした。



「お前もいつまでそこに乗っているつもりだ」



 もう一度聞こえた声に答えたのはラフィーナの向かいに座っていた男だった。



「はいはい、すぐに降りますよ」



 男が立ち上がる。こんなにも揺れている中で立てるなんてすごいわ、とラフィーナは思う。自分だったらすぐに転んでしまいそうだ。男はラフィーナを見て微笑んだ。



「しかし本当に見事な銀の髪ですね。間違いないようで安心しました」



 ガラガラと音がする中、男は扉を開けた。窓のカーテンが揺れ、風が通り抜ける。ジジョが勢いよく腰を浮かし、男の服を掴んだ。パクパクと動く口。何かを伝えたがっているのが分かる。


 風によって顔にかかった髪を耳に掛け、ラフィーナはそんな2人を眺めた。



「ご心配ありがとうございます。ですがお気になさらず。私の主人はすごい方ですので」



 扉の向こうで流れていく地面と木々。男は笑顔のままジジョの手を解き、とんだ。ジジョの目が見開かれるのをラフィーナはただ見ていた。驚いた時の顔。でも何に驚いているのだろう。


 座ったままのラフィーナ。慌てた様子で扉の外へ顔を出して後方を見るジジョ。ふっとその表情が緩んだ。すぐに先ほどの男が馬に乗って現れた。



「問題ありませんよ。もうすぐ森を出ます。扉を閉めますので座っていてください」



 そんな言葉と同時に扉が外から閉められた。再び隣に腰掛けたジジョは、風で乱れた髪を手で整える。ラフィーナは聞いた。



「ギンノカミって何? カミって髪のこと?」



 さっきの男の言葉。ラフィーナはそれが気になった。ジジョは微笑んだまま頷く。



「じゃあギンは? ふわふわってこと?」



 ラフィーナは自らの髪をひと束手に取って見つめた。ゆるく波打つ長い髪。ばあやがよく言っていた。「姫様の髪はふわふわでとても美しいですね」と。「ギン」というのが髪の状態を指すならそのことかと思ったが、ジジョは首を横に振った。



「綺麗ってことかしら?」



 ジジョはまた首を横に振る。そしてある一点を手で示した。その先を辿る。何もない。壁があるだけ。この向こう側かしら、と考えた。この方向にいるのはあの彼だ。自分と同じ……



「色?」



 今度は頷きが返ってきた。



「そう、この色は銀と言うのね」



 ふっとラフィーナの頬が緩んだ。喋ることのできないジジョ。ラフィーナの話を聞くばかりで何も教えてくれない父。ラフィーナを愛してはすぐに帰って行く兄。閉じた世界では新しい言葉を覚えることはできなかった。



「……わたくしの、銀の髪」



 新しく覚えた言葉を口の中で呟く。ジジョが微笑みを浮かべてラフィーナを見る。ラフィーナにはジジョの微笑みがいつもと違って見えた。


 どうしてだろう。いつも笑っているジジョ。でもいつもと違う。嬉しそうで、楽しそうで。この知らない人間達を見てからだ、と思う。これからどこへ行くのだろう。胸がざわつき、締め付けられ、少し苦しい。



「いいえ、お父様が来てくれるもの」



 自分に言い聞かせるように口にした言葉は馬車の音にかき消される。それでもラフィーナの心は少し軽くなった。「テイコク」も「トツイデイタダク」も分からない。だけど父は迎えに来てくれると言った。それならラフィーナのすることは決まっている。父の言葉だけを信じていればいい。



「今度はどんな離宮に住むのかしら? また一緒にお掃除をしましょうね、ジジョ」



 ラフィーナの言葉にジジョは微笑んだ。何か言いたそうな、どこか沈んだ笑みだった。分からない。ジジョがどうしてそんな顔をするのか。


 ラフィーナはジジョから目を逸らし、新しい場での変わらない暮らしだけに思いを馳せた。春の香りはもうなかった。

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