26.微妙な味
沈黙の中、ラフィーナはゆっくりと立ち上がった。ネストルの目がラフィーナへ向く。
「お茶の淹れ方を教えてもらったの」
そう微笑むと、感情の抜け落ちていた表情がほんの少しだけ緩んだような気がした。
そうか、と小さな声が聞こえた。用意されている茶器を手に取り、イリスに教わったばかりの手順を踏む。コポコポと音を立ててカップにお茶を注ぐと、爽やかで少しだけ苦い香りが立ち昇った。
「上手にできたかしら……」
教えてもらった通りに淹れたけど、昨日のあの味を思い出すと少し不安になる。ラフィーナはもう一つのカップに同じように注ぎ、一口飲んだ。
「あら……?」
昨日のような飲めない味ではない。だけどイリスやクレイトスの味には劣る。イリスと同じように淹れたのに。ラフィーナは揺れる水面をじっと見た。
ネストル様はいつも美味しいお茶を飲んでいるのよね? これはあまり美味しくないから出さない方がいいのかしら、と考える。少しして結論が出た。
お茶はクレイトスが淹れたほうが美味しい、と。ラフィーナは口をつけたカップをもう一度傾ける。やっぱり美味しくない。どうしてだろう。考えていると不意に後ろから声がかかった。
「早く寄越せ」
ヨコセ、とは何だったかしら、と考えながら振り返るとネストルに見られていた。
「さっさとくれ、と言っているのだ」
お茶が欲しいのね、と納得してラフィーナは「でも」と口を開いた。
「美味しく淹れられなかったの。クレイトスが戻ってから淹れてもらったほうがいいわ」
素直に言うと、ネストルは微かに眉をひそめた。そして手に持っていた書類をパサ、と机に投げる。紙が机の表面を滑り、ふわりと着地する。
「聞こえなかったのか。淹れたなら寄越せ」
味なんてどうでもいい、とネストルは冷たい声で言った。そういえば昨夜もネストルはあの苦いどころでないお茶を飲み干していた。あまり味にこだわらない方なのね、と思いながらラフィーナはカップをネストルの前に置いた。
カップを持つネストル。ラフィーナは再びソファに腰掛けてネストルを見た。
「ねえ、わたくしはネストル様の婚約者なのよね? それって何をしたらいいの?」
クレイトスは言っていた。「婚約者」は特別なのだと。同じ時を過ごし、相手を大事にし、心を預け、互いを守る。それが婚約や結婚をする人なのだと。
ならば自分はネストルに何をすればいいのだろう。
ラフィーナの問いに、ネストルはカップを置いて小さなため息をついた。
「お前の好きなようにしろ」
「だけどわたくしは婚約者がどんなことをするのか何も分からないわ」
ちゃんと教えてくれないと分からない、というのは言葉にはしなかったが伝わったのか、ネストルは静かな声で言った。
「分からずとも良い。したいようにしろ。私はお前に何も求めていない」
突き放すような言い方。だけどラフィーナはネストルに対して以前ほどの恐怖を抱いていなかった。それは先ほどの「兄さまは嫌いな人とは話もしない」というタリアの言葉から、自分は嫌われているわけではないのだと思えたから。
また沈黙。ラフィーナはお茶から立つ湯気を飲む。爽やかな香り。今度はお茶も一口飲み、カップを置いた。
「……エリオス様は靴を履いた方がいいとおっしゃったわ」
だけどネストルは履かなくてもいいと言った。ネストルはラフィーナを外に連れ出しはしたがそれ以上のことは何も言わない。どうしてだろう、と思う。
「靴はわたくしを守ってくれるんですって。ネストル様もそう思うの?」
そう聞きながら何も隠すもののない自身の足を見た。そこに見える青い筋を目で辿っていると、「どうでもいい」と興味なさそうな声が聞こえた。
「履きたければ履け。嫌なら履くな。靴が守ってくれぬなら他のものがお前を守る。それだけだ」
「他のものって?」
顔を上げて首を傾げる。ネストルは眉間に皺を寄せ、机上の書類へ視線を落とした。どうやら答えはないようだ。ラフィーナはポスンと背もたれに体を沈めた。
「靴を履かないのはみっともないって皆が言うわ」
ズキリと胸が痛んで、自分の顔から笑みが消えていることが分かった。ネストルが視線を上げてラフィーナを見た。意識して口角を上げる。
「……わたくしは、頭がおかしいのかしら?」
先ほどの言葉を思い出しながら、震える声で問うと、ネストルの目が鋭さを増した。
「誰が言った」
「綺麗なお洋服を着た女の人達と男の人よ」
そうは言ってもこの城の中にそんな人がたくさん、というかそんな人たちばかりであることはラフィーナにも分かっていた。
「クレイトスが一緒にいたのでは」
ネストルはそこで言葉を切り、小さく舌打ちをした。
「……耳がいいのか。次からはすぐにクレイトスに言え」
クレイトスがなんとかする、とネストルは言った。
「他人の言葉に踊らされる必要はない。それは奴らの価値観でお前のものではない。お前はお前の思うようにしろ。奴らの言葉も私の言葉も兄上の言葉も聞く道理はない」
話は終わりだ、と言わんばかりに書類へと視線を落とすネストル。その横顔を見つめる。冷たくて鋭くて、まるで冬の澄んだ空気のよう。
あまり美味しくないお茶を飲みながら、そんなことを思った。触れると凍えてしまいそうだけど、手を伸ばしたくなる。どうしてだろう。
扉の向こうで響く幾つもの足音。その中にすぐそこで止まるものがあった。クレイトスとイリスが戻ったのだ。ラフィーナは考えるのをやめて立ち上がる。
「わたくしはもう行くわ」
ネストルが顔を上げる。こういう時はなんと言えばいいのだったか。エリオスは勉強する自分になんと言って部屋を出ていたか……
「ネストル様、無理なさらないでね」
エリオスの言葉を借りて言うと同時に、扉が開いてクレイトスとイリスの顔が見えた。二人はラフィーナを見て一歩下がる。空いた空間を通って部屋を出る直前、後ろから小さく聞こえた。
「次はもっと美味い茶を淹れろ」
振り返るがネストルの目は手元の書類へ向いている。ほんの小さな声。だけど確かに聞こえた。
「ええ」
次もあるのだわ、と思うと自然と笑みが広がった。




