20.城の夜
窓から入る月明かりが廊下に淡い四角をいくつも描いている。人の姿も声もない薄闇。それは昼に歩いた城の中とは別物だった。ペタペタと、唯一の自分の足音も闇に呑み込まれ、違うように聞こえる。
「不思議ね。同じ場所なのに全然違う場所みたい……」
呟いた言葉に答える声はない。ラフィーナはなんだかいけないことをしているような気になり、やはり部屋へ戻ろうと振り向いたが、もう既に帰る道は失っていた。
すぐそこの曲がり角ですら自分が来た方向が分からない。ラフィーナは少しの間後ろを見ていたが、また前を向いて歩き出した。歩いていたら誰かに会うだろう。
何度か廊下を折れ、階段も下った。その頃になって、ラフィーナはここまで誰にも会っていないことに気が付いた。
「ここにはたくさんの人がいるのにどうして誰にも会わないのかしら」
最初に会った人に自分の部屋かネストルの部屋を聞こうと思っていたラフィーナは、足を止めて首を傾げた。呟いた声が薄闇の中に溶けていく。
耳に入るのは自分の音だけ。賑やかなのは気になるけど、静かなのは気にならない。ずっと2人だけで生活してきたから。暗いのだって平気。離宮の夜も暗かったから。そのはずなのに背筋がぞくりとした。
離宮と違い、広いここではベッドへ帰ることもできない。声を上げてイリスを呼ぶこともできない。ずっと誰にも会わず部屋に戻れなかったら。ずっと夜が明けず薄闇のままだったら。このまま闇に呑まれてしまったら。
冷静になるとそんなことあり得ないと分かるのに、今のラフィーナは目の前の闇に孤独と恐怖を覚えていた。
「……どうしたらいいの?」
何も考えずに部屋を出たことを少し後悔した時だった。前方に光の筋が見えた。目を凝らすと扉の隙間から光が漏れているのだと分かった。誰かいるのかしら、と思いながらそっと扉に近付く。耳を澄ませてみたが人の音は何も聞こえない。いや、微かに紙の音が聞こえた。
ノックをしようと手を上げた時だった。
『誰だ』
鋭い声が中から聞こえた。握った手が止まる。聞いたことのある声。少し考えてそれがネストルのものだと分かった。すぐに分からなかったのは帝国語だったから。ネストルの声と帝国語がすぐに結び付かなかった。
よりにもよって、という思いと、そもそもネストルにお礼を言う為に部屋を出たのだからちょうどいい、という思いが交錯する。しかしあまりに急だったので扉の前で固まったまま動けなかった。
『そこにいるのは誰だ、と聞いている。早く答えろ』
心の奥底まで凍えるような冷たい声。怒っている声。
『ラ、ラフィーナです』
胸を締めつけられながらもラフィーナは声を絞り出した。まだノックもしていないのに、音も立てていないのにどうして分かったのだろう。
扉はすぐに開いた。闇が光に侵食され、ラフィーナは手で目を覆う。
「なぜお前がここにいる」
目を覆ったまま、パチパチと二度瞬きをすると少しだけ光に慣れた。覆う手を外し、目を細めてネストルを見る。こちらをじっと見る冷たい目。心の奥底までを見透かすような目に、ラフィーナは視線を下げた。
「あ……お昼のお礼を言いたくてお部屋を出たの」
声はちゃんと出ているだろうか。震えていないだろうか。俯いた視界にネストルの足先が見える。
「だけどどこに行けばいいのか分からなくて、お部屋への帰り道も分からなくなってしまって……」
視界からネストルの足が消えた。顔を上げると部屋の奥へ向かう背中が見える。扉の正面に置かれた椅子と机。ネストルはそこに腰掛けると、無言のまま机の上の紙の一枚を手に取り、目を滑らせる。
どうすればいいのだろうか。ラフィーナは途方に暮れて、ただそれを見ていた。
「……何をしている。入るなら入れ」
少しして発せられた思わぬ言葉にラフィーナは目を瞬かせた。
「入って、いいの?」
「私に用があるのだろう」
書類から目を上げずに言う姿はまるでラフィーナを拒絶しているようだ。だが言葉は違う。変な感じだわ、と思いながらも部屋に入り、扉を閉めた。
そう広い部屋ではなかった。椅子と机が2セット。ソファとテーブル。それから部屋の隅のテーブルに茶器があるだけ。無駄なものを全て削り落としたような部屋。ネストルのことはあまり知らないが、それでもとても“らしい”部屋だと思った。
ラフィーナは壁際に立ったまま、紙を見ては何かを書き、たまに舌打ちをしたりため息をこぼしたりするネストルを眺める。
「気が散る。長椅子にでも座れ」
少ししてネストルがやはり顔を上げずに言った。小さな声で返事をしてソファへと体を沈める。何故だろう。今はあまり怖くない。
ネストルの横顔を見る。笑っているわけでも優しいわけでもない。怖い時と何が違うのか、分からない。
ふと茶器が目についた。お湯らしきものもある。ラフィーナはそこへ移動して、茶葉を手に取った。
お茶の淹れ方は小さい頃にばあやに教えてもらった。離宮にいる時は自分でも淹れていた。
お茶をカップに注ぐと爽やかな香りが部屋中に広がる。カップを一つ、机に置くと、ネストルは訝しそうにラフィーナを見た。
「……なんだ」
「お勉強の時はお茶があった方が嬉しいもの」
微笑むラフィーナにネストルは何か言いたそうな顔をしたものの、ペンを置いてカップに口をつけ、深いため息をついた。
「……茶もまともに淹れられないのか」
冷たいけれど怒ってはいない、だけど呆れたような声だった。言葉の意味がよく分からずラフィーナは首を傾げる。
「自分で飲んでみろ」
ネストルの視線がティーポットを指す。ラフィーナは言われた通りもう一つのカップにお茶を注いで、先程まで座っていたソファへと腰掛けた。
そしてカップに口をつける。途端、衝撃が全身を巡った。揺れる水面。こぼれそうなそれにハッとしてカップとソーサーをテーブルに置く。そしてラフィーナは口元を手で押さえ、ごくりとそれを飲み込んだ。
「こ、これはなあに……?」
困惑を隠せないラフィーナ。ネストルはもう一度カップに口をつけて顔をしかめる。
「お前が淹れた茶だ」
「これがお茶……? この、苦いのが……?」
お茶とは多少の渋みはあるものだ。だがそれは渋みなんて言葉では表せないほどのものだった。たった一口飲んだだけなのに舌がシワシワになったかのよう。
「わ、わたくし今までと同じように淹れたのよ……? どうして……」
ラフィーナは呆然と呟いてネストルを見る。まるでネストルに答えを求めるかのように。しかしネストルはカップを置くと再び視線を落としてペンを握った。
「……申し訳ありません」
ズンと胸の内が重くなった。




