19.春の夢
扉が開くと外の空気が流れ込んできた。髪がふわりと揺れる。その瞬間、まるで時が止まったようで、呼吸すらも忘れていた。求めていたものがそこにあった。
考える前に体が動いていた。立ち上がり、馬車から飛び出そうとして、そこに立っていたクレイトスの微笑みが見えた。
「落ちてしまいますよ」
「あ、ありがとう……」
差し出された手に支えられるように馬車から降りる。
温かく柔らかな草が足を包んだ。その心地よさに、ラフィーナは笑うことも忘れ、ただ息を漏らした。
風が頬を撫で、髪を揺らす。香る春が安らぎを与える。ラフィーナは片手に薔薇を持ったままゆっくりと足を踏み出した。
鳥の囀り、何かが茂みを揺らす気配、風に吹かれる木々のささやき。ラフィーナの知っている世界がそこにあった。
意識が遠くへ飛ぶ。足は確かに草を踏み締めているのに、まるでタリアの魔法で宙を漂っている時のような浮遊感がある。そこは夢のような場所だった。
「すごい……すごいわ!」
気が付いた時には地面を蹴っていた。軽やかに走るラフィーナは春の風を受けて朗らかに笑う。
「イリス、あなたも感じてちょうだい! 春がここにあるわ……!」
振り返るラフィーナの銀の髪が舞い上がる。髪が乱れることも全く気にならなかった。
「ラフィーナ様、転んでしまいますよ」
イリスが遠くで慌てたように言う。だがラフィーナはイリスの言葉を気にせずに、両手を広げてくるくると回った。
「転んだって構わないわ。こんなにも気持ちいいのだもの!」
離宮の窓から入ってきた春の気配。それに今包まれている。温かくて柔らかくて優しくて。
「夢みたい……!」
ラフィーナはゆっくりと足を止めて、浮き上がるような高揚感の中、もう一度イリスの方を振り返った。と、何かにーー誰かにぶつかった。
幸い、反射的に引いた足で体を支えたおかげで転ぶようなことはなかったが。
顔を上げたラフィーナの視界に入ったのは冷たい目だった。体の内側にあった熱がすっと鳴りを潜める。
浮かれていた。周りを見ることもできないほどに。よりにもよってネストルにぶつかるなど。
「……申しわ」
「謝るな」
謝ろうとしたラフィーナの小さな声は鋭く遮られた。体が強張り、足が竦む。ラフィーナは隠すように深く呼吸をし、握ったままの薔薇を指先で小さく撫でた。
「気配を消していたのは私だ。お前が謝ることではない」
なんと言えばいいのか分からなくて小さく頷くと、ネストルはラフィーナへ背中を向けた。
「私は先に戻る」
「え、ええ……」
静かな声だった。どうやら怒ってはいないようだ。胸を撫で下ろして頷いた。ネストルはそれ以上ラフィーナを見ることも言葉を交わすこともなく馬車へと乗り込む。
「後ほどお迎えにあがります」
クレイトスは穏やかな笑みを浮かべてそう言うと御者台へ座る。風に揺れる髪を片手で押さえてラフィーナは小さくなっていく馬車を見送った。
「そう冷たい方ではないと申したでしょう? やはり優しい方です」
後ろから聞こえた声に振り返るとイリスが微笑みを浮かべて立っていた。手に持った薔薇へと視線を落とす。エリオスやタリアやクレイトスも優しい人だと言っていた。
自分と同じ色を持つ人。冷たい人。怖い人。だけど今は少しだけ怖くなかった。
「……分からないわ」
優しい人は笑いかけてくれる人。それはつまり父やばあや、イリス、エリオス、タリア、クレイトスのことで、ネストルはそこには入っていない。
真っ白な棘のない薔薇。ネストルがくれた薔薇。ラフィーナはそれを見つめながらもう一度「分からない」と小さく呟いた。
一人になった暗い部屋の中でラフィーナは体を起こした。いつもだったらもう寝ている時間。だけど今日は眠れない。外に出たことで気が昂っているのかもしれない。
体にかかっていた布団からそっと足を抜き、床につける。硬い床の感触に、今日の草の柔らかさを思い出した。柔らかくて温かかくて、くすぐったかった。
机の上の花瓶に挿された薔薇。暗い室内で、それだけが白く浮かび上がっている。手を伸ばす。しっとりとした花弁が指に吸い付くようで、ラフィーナは意識せず頬を緩ませた。
「……わたくし、ネストル様にお礼を言ったかしら?」
心に浮かんだ疑問を呟いて考えてみるが、そんな記憶はない。お城に戻ってからもネストルには会っていない。思わず口元に手を当てた。お礼の言葉はちゃんと言わなければならないとばあやが言っていたわ、と思う。
「明日でもいいのかしら……」
本来ならすぐに言わなければならなかったこと。忘れていた上に明日にまで引き延ばしでいいのだろうか。ばあやは怒るかもしれない。ネストルも怒るかもしれない。
ラフィーナは微かな月明かりを頼りに部屋を横断し、ゆっくりと扉を開けた。




