21.薔薇の怪我
紙の音。たまにペンを走らせる音。ラフィーナは視線を自身の足へと落としたままそれを聞いていた。意味もなく足先にきゅっと力を入れてみたり、トントンと床を叩いてみたりする。ひんやりとしていた床は今やラフィーナの体温でじんわりとぬるくなっていた。
何度目か分からないネストルの舌打ちが聞こえ、ラフィーナは顔を上げた。ネストルの目は変わらず手元の紙へと向いている。
「ぁ……」
その手に巻かれている白い包帯に、今気が付いた。
ーー素手で薔薇を折るなんて……袖が血だらけではありませんか。
不意にクレイトスの声が蘇る。
ラフィーナはあの会話を聞いて、薔薇をくれたのがネストルだと知っても、その血が誰のものかなど考えもしなかった。怪我をしていた?
お昼のぶつかった時を思い出してみるが、ネストルの手を見た覚えがない。だって血がついているなら何とも思わないわけがない。隠していたのだろうか。
血の気が引いた。
「なんてこと……」
思わず声が漏れ、ネストルが顔を上げてラフィーナを見た。呆然としたまま、ラフィーナはネストルの手から顔へ視線を移す。
「申し訳、ありません……」
ネストルが眉をひそめた。
「何の謝罪だ」
鋭い声。ラフィーナが包帯の巻かれた手に視線を落とすと、ネストルも手に視線を落として舌打ちをした。
「……剣の手入れをする時に切った。つまらんことを気にするな」
ラフィーナは視線を上げてネストルの顔を見た。いつもと同じ冷たい表情。何を考えているのか分からない。
「クレイトスは洗濯をする侍女の為に怒っていたわ」
そう言うと、ネストルは微かに目を見開いた。
「お前……あれが聞こえたのか?」
ええ、と頷く。ネストルは表情から驚きを消し、ため息をついた。
「……大した怪我ではない」
「申し訳」
「謝るな」
謝罪はすぐに遮られた。
「お前が俺に薔薇をねだったのか? 俺の手を傷付けたのはお前か? 頷くことがないなら謝るな。鬱陶しい」
淡々と言われた言葉。ねだってはいない。直接的に傷を付けたのも自分ではない。
「だけどネストル様がお怪我をしたのはわたくしのせいだわ……」
ポツリとこぼしたラフィーナに、ネストルは冷たい声で言った。
「お前がそう思いたいなら勝手に思っていればいい」
ネストルはため息混じりにそう言うと、また手元に視線を落としてしまった。どうも怒っているようだ。ラフィーナは首を傾げる。何故怒るのだろう。分からない。
謝ってはならない。ならばなんと言えばいいのか。そう考えてラフィーナは部屋を出た当初の目的を思い出した。
「あの、違うの。ありがとうを言いたくて」
棘に守られたあの花をこの手にできたこと。ネストルが自分の為にくれたこと。まるで世界が彩られたかのようだった。
「薔薇だけじゃなくて、お誕生日を覚えていてくれたことも……すごく嬉しかったの」
自分でも知らない自分の誕生日。それをイリス以外の人が覚えていてくれたこと。驚いて、でも嬉しかった。だから、この人と一緒に行ってみようと思った。だから、部屋を出た。
控えめな声量だったが、ネストルは顔を上げることなく「ああ」と言葉を受け入れた。
当初の目的を遂げることができたラフィーナは、思わず笑みを浮かべた。迷ったし怒らせてしまったけど、ちゃんとお礼を言えた。心が緩み、ソファの背もたれに体を預けた。
紙とペンの音だけが部屋の中に響く、静かな空間。ラフィーナはうとうととまどろんだ。
誰かの足音が聞こえたような気がして目を開けた。まず目に入ったのはネストルの横顔。そして知らない部屋。目が自然もイリスの姿を探して、ここがどこか思い出した。
お礼は言ったわ。なのにどうしてわたくしはまだここにいるのかしら、と寝ぼけ眼で思う。ふらりと立ち上がるとネストルの顔がこちらへ向いた。
「わたくし、お部屋へ戻るわ」
「戻れるのか?」
返ってきた言葉に踏み出した足が止まる。目が覚めた。
「……そうだったわ。迷っていたのよ」
やっと全ての記憶が繋がった。一人では帰れない。朝になればイリスが部屋にいない自分を探してくれるだろう、と思い、再びソファへと腰掛ける。同時に誰かの足音を耳が拾う。そうだ、起きた時にも聞こえていた。
「誰か来るわ」
呟くと、ネストルは訝しげに眉をひそめた。足音はどんどん近付いて来る。そうしてようやくネストルは「ああ」と納得したように呟いた。
「クレイトスだ」
「クレイトス?」
足音が扉の前で止まり、ノックの音はなく扉が開いた。
『ネストル様、まだ仕事ですか? もう日が変わりましたよ。そろそろ休んでください』
呆れたような声と共にクレイトスが姿を現し、ラフィーナを見て固まった。ラフィーナは、ネストルがしていたのは勉強ではなく仕事だったのだと、その言葉から理解して、一人頷く。
「もう休む。王女を部屋まで送ってやれ」
ネストルの淡々とした声。
「な、なぜラフィーナ様がこちらへ……?」
珍しく困惑を隠していない声に、ラフィーナはふふ、と笑った。
「お部屋への帰り方が分からないの」
クレイトスがいたら帰れるわ、と立ち上がる。クレイトスは何か言いたそうに口を開いたが、
「……そう、でしたか」
全て飲み込んだようにそれだけ言った。そしてその視線はネストルの机の上のカップへ。
「ご自分で淹れられたのですか?」
「違う」
ネストルが立ち上がって短く否定する。クレイトスはぎこちない動きでラフィーナに顔を向けた。
「もしや、ラフィーナ様が……?」
「上手に淹れられなかったのだけどね」
お茶があれば捗るかと思ったが、ない方がよかったかもしれない。ラフィーナは自分が淹れ、残したカップを見る。ほとんど減っていない濃い色の液体は、見るだけで口の中の渋みを思い出させた。
クレイトスが大きく目を開いてネストルを見る。さっきから自分をネストルを交互に見るクレイトスを、ラフィーナは少し面白く思っていた。いつも穏やかな微笑みを浮かべているクレイトスの驚く顔は希少だ。
「まさかあなたが他人の淹れたお茶を飲むとは……」
「黙れ。余計なことを言うな。早く連れて行け」
ネストルの鋭い声。だけどクレイトスはふっと微笑んだ。
「はいはい」
行きましょうか、と言われ、クレイトスの開けた扉をくぐる直前、ラフィーナは振り返った。目が合う。ネストルはさっさと行けと言わんばかりにひらりと手を振った。
横を通る時に見えた、机の上のカップは空になっていた。




