17.陰口
数歩進んだ時、イリスがハッとしたようにラフィーナを呼んだ。
「お出かけになられるならお履き物を……」
焦ったような、だけど少し弾んだ声。イリスの言葉にネストルは視線を下げ、眉をひそめた。
「何故靴を履いていない。用意しただろう」
離宮を出るまで靴を履いたことがなかったラフィーナ。何足も用意してあることは知っている。だけど最初の頃に練習の為に二、三度履いただけで、それ以来履いていない。
「靴は好きじゃないわ。窮屈で足が痛くなるの」
その時ラフィーナは思い出した。外に出る時は靴を履くものなのだ。「履くわ」と言おうとしたが、それは声になる前に遮られた。
「お前がいいのなら履かずともいい。行くぞ」
ネストルはやはり一歩も部屋に踏み込むことはせず、ラフィーナを見ている。ゆっくりとネストルの方へと踏み出した。
「裏に馬車を用意するようにクレイトスに伝えておけ」
イリスは頷くと早足で歩いて行く。ネストルと2人になってしまった。恐る恐るネストルの顔を見る。何を考えているのかは分からないけど、怒ってはいないと思う。
扉をくぐる直前、廊下の向こうから短い悲鳴がいくつも聞こえ、思わず足を止めた。何かあったのだろうか。
「早く来い」
しかしネストルは相変わらず温度のない目と声で言い、歩き出した。少し空いた距離を保ち、ゆっくりと歩く。廊下の冷たさが心地いい。
だが少し歩くとあちこちから視線を感じた。すれ違う人、足を止める人。どこを見たらいいのか分からなくて俯く。その視線がどのようなものなのかは分からない。だけど居心地の良いものではない。
やっぱり外になんて出なかったら良かった。視線を下げ、少し先を行くネストルの靴だけを追いかける。
進めば進むほど人の視線は増えた。意識してそれから思考を逸らす。
不意に気が付いた。こんなにも人がたくさんいるのに、足がザラザラしない。砂ひとつない綺麗な廊下だ。あの離宮ですら砂が入り込んで足のザラザラは日常だったのに。こんなにも大きなお城を掃除するには何人の手が必要なのだろうか。
人が多いとお掃除も行き届くのね。ふ、と顔が綻んだその時だった。
『見て、もしかしてあの方……』
どこからか囁く声が聞こえた。
『初めて見たわ。噂は本当だったのね』
『あの髪……信じられない』
『やっぱり王国の仕業だったのか』
顔が強張る。不思議なことに、そちらを見なくてもそれが自分のことだと分かった。言葉に含まれるなんとも言えない響きが気持ち悪い。視線を上げることはできず、ただネストルの足を追いかける。
『どうして靴を履いていないのかしら』
『みっともないわね』
『あら、きっとそれが王国の常識なのよ』
また別のところからくすくすと笑う声。その声の響きに、意識せず歩幅が小さくなる。足が止まりそうになったその時、コツン、と足音が鳴った。
ハッとして顔を上げる。ネストルが足を止めて半身で振り返っていた。じっとこちらを見る目。早くしろ、と急かされているのだろうか。
「申し訳ありません」
小さな声で謝ると、ネストルは舌打ちをしてまた歩き出した。ラフィーナも先ほどより少し速く歩く。
『今の見られた? 睨んでられたわ』
『婚約者に向かってあのような冷たいお顔……なんて怖いお方なのかしら』
『あの方も可哀想なお方よね。婚約相手があの氷月の方だなんて』
『機嫌を損ねたら殺されてしまうのよ? わたくしは恐ろしくて言葉も交わせないわ』
それが誰の話をしているのか、すぐには分からなかった。
『陛下も酷な方だわ。何も知らない他国の王女様を悪魔のような方と婚姻させるなんて』
『仲の良い兄妹ですもの。弟が可愛いのでしょう。帝国にあの方に嫁ぎたいご令嬢なんて一人もいないもの』
もしかしなくともこれはネストルのことを言っているのだろうか。今ここに本人がいるというのに?
胸の内がモヤモヤする。こっそりとネストルの背中を見た。その背中は揺るがない。聞いているのか、それとも聞こえていないのか。
『ねえ、もしかしてあの方が銀の乙女なのではないかしら?』
『そうよ、あなた知らないの? 1年前に噂になっていたじゃない』
『あら、そうだったの? それならあの予言は作り話なのね。銀の乙女はもう帝国に帰ってきたのだもの』
今度は何の話だろうか。よく分からない。帝国語で交わされるその会話をラフィーナがすぐに理解することは難しい。
ネストルの背中から視線を逸らし、俯きがちに周りを見る。立ち止まって話をする人達が数ヶ所に見えた。
やっぱり部屋の外になんか出なければよかった。ラフィーナは少しの吐き気を覚えながらも、ただネストルだけを追った。




