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13.怒り

『帰って来るのって明日じゃないの?』



 タリアが口を尖らせてクレイトスを見る。その意味がよく分からなくてラフィーナは首を傾げながら床に裸足の足をつけた。同じように床に降りるタリアの髪は珍しく漂っていない。



『あたしの魔法に干渉できるのって兄さましかいないんだよね』



 深いため息。ラフィーナは首を傾げた。



『それはどういう意味?』


『予定が早まったのかもしれませんね』



 ラフィーナの問いには答えずクレイトスが扉を見る。もしかして、と思うと同時にノックの音が響いた。前もそうだったけれど、あの人の足音は聞こえない。どうしてだろう。


 応える前に扉は開いた。コツ、コツ、と冷たい音が入ってくる。ああ、と思う。意識して足音を消しているのか、意識して足音を立てているのか。どちらだろう。心が冷えていく感覚があった。


 ネストルは小さなため息をつくとまずタリアへと視線を向けた。



「タリア、前にも言ったが」


『はいはい、危ないことはしてないよ』



 ネストルの言葉を遮ってタリアが言う。ネストルは微かに眉を寄せたが、それ以上は何も言わずにラフィーナへと視線を移した。季節が一巡りしたというのに変わらず鋭い目。俯きそうになるのをどうにか堪えた。



「王女殿下、ご機嫌はいかがですか」



 形式ばったその言葉にラフィーナは強張った声で答える。



『変わりなく過ごしています。おかえりなさいませ、ネストル様』



 クレイトスに教わった敬語。クレイトスもタリアもエリオスまでもが敬語を使うことを退けたので今のところ使う相手は他にいない。ネストルは眉をひそめた。自分の帝国語が拙いことは分かっているが、そこまで不快をあらわにされると傷付く。



「私は王国語では話しかけている。聞き苦しい帝国語を喋るな」



 ビクリと体が揺れた。



「も、申し訳ありません……」



 怖い。ラフィーナは視線を床へと落とした。足先に力が入る。早く出て行って欲しい。



「慣れない喋り方もやめろ。耳障りだ」



 胸がツキリと痛む。今感じているこれは悲しみだわ。お父様が長く会いに来てくださらなかった時と同じだもの。



「兄さま、そんな酷い言い方しないでよ」


「もう少し言葉を選んだらどうですか? ネストル様」



 タリアとクレイトスの非難するような声にもネストルは一切気にした様子を見せない。



「私は事実を言ったまでだ」



 そう言うと、ネストルは部屋を出て行った。タリアとクレイトスの小さなため息が聞こえる。ラフィーナは沈んだ心を隠すように、無理やり笑みを作った。




 それは翌朝のことだった。


 椅子へ腰掛けてイリスの淹れたお茶を飲んでいると、ノックの音が響いた。タリア達が来るには少し早い時間。そしてラフィーナの耳は誰の足音も捉えていない。思わずイリスへ視線を向けた。



「イリス、きっとネストル様だわ。どうしたらいいの?」



 ラフィーナは戸惑いを隠せない。どうしてここへ来るのかしら、と思う。今のラフィーナには分かっていた。ネストルから向けられる視線が決して好意的なものではないこと。それなら来なければいいのに。


 窓から入る柔らかな光が落ちる床。その境界線を目でなぞる。



「言葉は厳しいですが、恐らくそう冷たい方ではありません」



 イリスは小声で言った。



「冷たいから言葉が厳しいのでしょう?」



 ラフィーナも視線を床に落としたまま、小さな声で答えた時、急かすようにまたノックが響いた。ビクッと体が揺れる。イリスが扉へ向かい、開ける。そこにはやはりネストルが立っていた。



「遅い」


「も、申し訳、ありません……」



 小さな声で謝罪する。ネストルは舌打ちをすると部屋の中へ入り、少し離れたところで足を止めた。ネストルの後ろには誰の姿もない。扉も閉まっている。せめてクレイトスかタリアがいてくれたら、と思ったのに。落胆して俯くと、冷たい声が言った。



「この1年間、部屋から一歩も出ていないと聞いたが事実か?」



 責めるような響きを含むその声にラフィーナは怯えつつも頷いた。


 生活は部屋の中で全てが完結する。食事は侍女が、本はクレイトスが持って来てくれる。部屋から出る理由がない。出たいとも思わない。



「事実です。何か問題がございますか?」


「敬語はやめろと昨日言ったが、聞こえなかったのか?」



 そんなこと言われた覚えがない。ラフィーナは困惑しながらも小さな声で謝った。



「謝るな。おどおどするな。目障りだ」



 だったら来なければいいじゃない。そんな言葉が口から出そうになって、慌てて口を押さえた。顔は下を向けたまま目だけでネストルを見る。鋭く冷たい目がラフィーナを見ている。



「1年前、私がなんと言ったのか、お前は覚えているか?」



 何の話か分からない。助けを求めてイリスへ視線を向けるが、イリスは心配そうな視線をこちらへ向けるものの口は開かない。



「私は知識を頭に入れろと言ったのではない。最低限を身につけろ、と言ったのだ」



 詰めるような言い方。ラフィーナは困惑を取り繕うこともできない。



「わ、分からないわ……」


「私は今どんな感情だ?」



 分かるわけがない。ネストルの感情なんて分からない。顔を少し上げ、ネストルの顔を見る。喜んではいない。困っている顔でもない。冷たい顔。小さく首を横に振った。



「分からない……」


「ではお前の侍女に聞く」



 ネストルは少し離れたところに立つイリスへ視線を向ける。



「私が今どんな感情だ」


「……お怒りです」


「そうだ」



 短く肯定したネストルはすぐにラフィーナを見る。



「怒りだ。私が今感じているのは怒り。誰が見ても分かるほどに怒っている」



 怒り……怒ると言うと、胸の内で何かが暴れるような、込み上げるような強い感情だとクレイトスは言っていた。しかしラフィーナはまだそれを感じたことはない。


 この顔が、声がーー怒り。



「何故お前にそれが分からないのか。お前が分かろうとしないからだ」



 ネストルが睨め付けるようにラフィーナを刺す。



「閉じた世界で特定の人間としか会わず、頭に入れた知識を体感していないからだ」



 それの何がいけないのだろう。ラフィーナの世界は元々そうだった。今更それに不自由なんて感じない。ネストルの怒りの理由が本当に分からない。



「もう一度言う。私は身につけろ、と言ったのだ。知識だけあったところでなんの意味もない」



 淡々とした冷たい声。刺すような視線。ラフィーナの口から「分からないわ」という言葉が吐息と共に漏れた。

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