100.帰還
かすかな音で意識が浮上した。目に入ったのは見慣れた天井ではなく、仕事をするネストルの横顔でもなく、揺れる馬車のクレイトスの微笑みでもなく、白い光を透かす布だった。
頭が一瞬思考を止める。しかしすぐに思い出した。天幕だ。血の砂の大地で父と決別した。シルヴァンは熊に乗っていて、酷く喉が渇いていて……あの後の記憶がない。手を少し動かせばリン、と控えめな音が転がった。
寝転がったまま手を持ち上げる。顔の上で手首のそれを弄んだ。
チリン、リン、リン……。
はあ、とため息が落ちる。手を落とすと、再び静寂が訪れた。今はいつだろう。白い光は柔らかいような気がする。朝だろうか。
もう一度目を閉じる。どこか遠くでいくつかの足音が聞こえた。
鳴らせば来てくれるって言ったのに。
「……ネストル様の嘘つき」
言葉が口からこぼれた。瞼の下でじわりと涙が滲む。会いたい。だけど怖い。開かない瞼が、冷たい手が、命の消えたような白さが。閉じたままの目から涙がこぼれそうになった、その時だった。
「俺は嘘はつかぬ」
温度のない声。聞き慣れたその声にラフィーナは飛び起きた。軽やかな音が2つ。そこに立っていた。目が痛いほどに開く。
「ネ、ネストル様……?」
お腹の白い包帯は変わらず、そこに白い騎士の服を肩に掛け、だけど顔は白くない。ネストルはじっとラフィーナを見て、目を伏せた。
「……だが、遅くなった。悪かった」
ラフィーナは呆然としたまま簡素な寝台を降り、おぼつかない足取りでネストルへと歩く。その目は少しもネストルから動かない。近くで見てもおかしいところはない。いつもと同じ。
震える指先で頬に触れると温かさがあった。
「い、生きてる……?」
蚊の鳴くような声。ネストルの頬に触れた手が握られる。確かな感触。体温。あの冷たさはもうない。腕を下ろすのと同時にネストルの肩からパサリと服が落ちた。
「生きている」
喉が詰まる。飲み込もうとしたができなかった。は、と息が漏れ、同時に視界が歪んだ。
「……ずっと……ずっと、鳴っていたのよ」
震えていた。涙があふれて止まらない。
「ずっと、待っていたのよ……」
「聞こえていた」
手が強く握られる。チリン、と鳴る音が2つ。一つはラフィーナの手首、一つはネストルの腰に下げられて。
「だから帰ってくることができた」
薄い色の目。真っ直ぐな目。ここにいる。滲んだ視界でネストルの顔もよく見えない。頬を伝った涙が雫となって落ちる感覚がいくつもあった。握られた手を握り返す。
苦しいほどに胸がいっぱいで、どうしようもないほどに幸福を感じて、なのにこの顔に浮かぶのは笑顔ではなく涙ばかり。
「う、嬉しい時も、涙が出る、のって、本当なのね……」
もう片方のネストルの手が遠慮がちにラフィーナへ伸びる。それは少し躊躇いを見せていたが、温かな手のひらはしっかりとラフィーナの濡れた頬を包み、その指が目に溜まった涙を拭う。柔らかな手つきだった。視界が晴れ、布越しの光に煌めくネストルの銀髪が見えた。
「……誓いを果たせなかった」
ラフィーナを見つめるネストルの目が揺れた。
「お前の心を守るなど偉そうなことを言っておいて、結局俺は何もできなかった。お前の隣にいることすらも」
すまぬ、と落とされた小さな謝罪。ラフィーナは自身の頬を包む手に手を重ね、その感触に目を閉じた。温かくて、優しくて。
「いいえ、一緒にいてくれたわ」
繋いだ方の手が揺れ、2人の間に鈴の音が落ちる。
「それに守ってくれたわ。ネストル様がいたからわたくしの心はここにあるのよ」
ネストルの言葉があったから自らの心を知ることができた。取り戻すことができた。もしもネストルがいなければ自分は未だに夢の中だっただろう。
ネストルの指が頬を撫でる。天幕の外で誰かの足音がした。
「……お前の心は選んだのだな」
静かな声にええ、と頷く。涙はもう止まっていて、口元が微かに緩んだ。
「お前の望みはなんだ」
父よりもネストルを。穏やかで美しい自分だけの離宮よりも、ネストルのいるあの城を。例えそれが胸の痛みや苦しみを伴おうとも。
だけどそれは自分だけの勝手な望みで……。
「これからもずっと、ネストル様と一緒にいたいと言ったら……迷惑かしら?」
小さな声だった。窺うような、遠慮がちな。ネストルの口元が、ふ、と綻んだ。柔らかな笑み。心臓が高く跳ねた。
「俺が迷惑かなどどうでもいい。俺はお前の心を問うている」
その言葉は前にも言われたことがあるような気がした。だけど冷たくない。怒っていない。まるで春の日差しのように温かい。
「わたくしは、」
『副団長殿……!』
布の向こうから大きな声が聞こえた。ネストルが反射的に振り向き、頬を包んでいたネストルの手が離れる。忙しない足音が近付いて来て……
『あ、クレイトス殿! 副団長殿を知りませんか? 先ほど天幕を訪ねたらお姿がなく……あのような身体で一体どこへ……』
『恐らく問題ありません。ネストル様のことはお気になさらず、帝都へ戻る用意を進めてください』
恐らく騎士とクレイトスの声が聞こえた。ラフィーナは目を丸くしてネストルを見た。まさか誰にも言わずに勝手に来たのだろうか。腹部に巻いてある包帯が目に入った。そうだ、意識が戻ったからと言って怪我が治ったわけではないのだ。
ネストルは眉をひそめ、舌打ちをする。同時に足音が一つ、天幕の前で止まった。
「ネストル様、いらっしゃいますか?」
そう聞きながらもいると確信しているようだった。ネストルは顔をしかめながらも「いる」と短く答える。
「ネストル様の天幕に朝食の用意をしておきます。後ほどお二人でどうぞ」
それだけ言うとクレイトスの足音は遠ざかって行った。ネストルがため息をつく。まだ繋いだままの手が揺れ、リンと微かな音がした。ネストルの指先が動き、手が離れようとする気配があった。反射的に強く握った。静かな目が少しの驚きを映してラフィーナを見る。
「わたくしはネストル様に心を差し上げたい。ネストル様がくれたように」
チリン、と音が二つ。ネストルは一瞬だけ視線を鈴は落とし、ラフィーナを見て静かに言った。
「お前の心はお前だけのものだ」
「ええ、だけどわたくしの心がそれを望んでいるの」
ネストルが鈴をくれたように。自分もこの心をあげたい。ネストルが守ってくれたこの心の全てをネストルに。
「わたくしはネストル様と一緒にいたいわ。この先もずっと、ずっと……」
顔が見たくて、声が聞きたくて、少しも離れたくなくて。ネストルの為にだったら何を捨ててもいいとまで思えるほどに。
「ネストル様の一番近くに、世界で一番近くにいたいの」
この感情を表す言葉を自分は知っている。胸の奥がふるりと震えた。
「そう、わたくしはネストル様を愛しているのよ」
父への愛とは違う。もっと熱く、激しく、渇望するような想い。これが愛だ。
ネストルの静かな瞳がラフィーナを見つめる。それがすっと細められた。柔らかな表情。らしくない、と思う。だけど違和感はなかった。どれだけ表情が冷たくとも、言葉が厳しくとも、ネストルの優しさはずっとそこにあったから。
「……俺は、お前の心に囚われている」
ポツリと落ちた言葉にラフィーナは首を傾げた。どういう意味かしら、と。ネストルは続けた。
「お前のその心をーーその美しさを守りたい。いつまでも囚われていたい」
「よく、」
分からないわ、と言おうとして、言葉を飲み込んだ。「分からない」はもう言わないと決めたのだった。そんなラフィーナを見てネストルはふっと笑った。
「ラフィーナ、お前を愛している」
ラフィーナの目が大きく見開かれる。驚いた。少し遅れて何かがあふれて来た。
「帰ろう。俺とお前の場所へ」
繋いだままの手が少しだけ引っ張られる。
「ええ」
込み上げたのは涙ではなく笑顔だった。
この先にはきっと知らないことがあふれている。踏み出した世界には柔らかな光が降り注いでいた。風が吹く。光に煌めく銀色が舞い上がった。
ラフィーナとネストルの物語はここで終わります。ですが二人はこの先も真っ直ぐに、あるいは不器用に互いを想いながら、共に歩んでいくことでしょう。
ここまで付き合ってくださった皆様に最大限の感謝を。また、評価やブックマーク等してくださった方々、とても励みになりました。ありがとうございました。




