99.ドラウゼン王
途端、父の顔から笑顔が抜け落ちた。深いため息。そして鋭い目がこちらへ向いた。
「やはり離宮から出すべきではなかったな。余計な知恵などつけおって」
ラフィーナの知らない父がそこにいた。心がすっと冷える。
「お前の魔法に決まっているだろう。他国の皇女を攫ってまで手に入れたんだ。それがなければ誰がお前など愛するものか」
吐き捨てるように言われた言葉。視界の端でルイーズが剣を抜こうとしたのが見えた。ルイーズ様、と呼んで制する。
覚悟していたほどの衝撃はなかった。やっぱりそうなのね、と思っただけ。覚悟をしていたから衝撃も少なかったのかもしれない。
「……わたくしは幸せだったのよ」
世界が広いと知っても、閉じ込められていたと理解しても、父の愛が偽物かもしれないと思っても、それでもあの日々の幸せは消えなかった。ずっと幸せで、夢のようだった。
「例えお父様がわたくしを愛してくれていなくても、愛してる、と言われたらそれだけで幸せなのよ」
「それなら私と共に」
「いいえ」
再び言葉を遮った。父の顔に怒りが浮かぶ。風が空を切り裂いて鳴く。ラフィーナは舞い上がる髪を手で押さえた。
知らないことは幸せだった。閉じた世界は穏やかだった。自分の心すらも分からないまま見る世界は美しかった。だけど、心を通して見る世界は何よりも輝いているのだ。
「ネストル様は、わたくしの価値は魔法にないと言ったの」
父とネストル、正反対の2人。自分の心がどちらに向いているかなど考えずとも分かる。
「もう戻れないわ。わたくしも、お父様も……夢の日々は終わったのよ」
あの頃とは全てが変わってしまった。父の手が再び剣を抜いた。
「ならば力づくで連れ帰るのみ」
緊張が走った。前方からも後方からも。
「お前は父も王国も捨てたのだ、ラフィーナ。どのような扱いを受けようと文句は言えぬ」
息が詰まる。胸が締め付けられる。だけど恐怖ではない。ただ、ひたすらに悲しい。
「いいえ、お父様」
違う。ここにいるのはもう父ではない。自分はもうこの男の娘ではない。
「わたくしは王国を捨てないわ。銀の乙女になるのよ、ドラウゼン王」
ラフィーナは強い瞳でドラウゼン王を見据えた。強い風が吹く。手首でチリン、と音がした。
ええ、分かっているわ。制御を失うな、でしょう?
胸の奥深くで何かが目を覚ましたように動き出す。それは段々と身体中に広がる。もう一度鈴が鳴った。
ドラウゼン王の驚く顔が見え、目が合った。その目が虚なものへと変わる。強い風が吹き、太陽が翳った。
「わたくしのことも野心も忘れて。これからは民の為の国を作るの。それが王国の救いだわ」
ドラウゼン王は虚な瞳で頷くと「引け」と抑揚のない声で言った。驚きの表情を浮かべる騎士は固まり、戸惑い、そして一瞬遅れて馬へと乗り、駆ける。
「引け! 戦争は終わりだ……!」
途端、うおおおお! と声が上がった。前方からも後方からも。騎士が駆けて行った王国側はともかく、どうして帝国側の騎士もなのだろう。目を丸くして振り向くと、ルイーズが笑った。
「騎士になるほどの者だからね。五感を鋭くするような、その類の魔法を使える者が何人もいるんだ」
「そうなのね」
空を見上げると太陽は雲に隠れていた。これで少しは暑さが和らげばいい。
ラフィーナは虚な目をしたままのドラウゼン王へ目を向けた。魔法を使うのは三度目のはず。だけど意識して使ったのは初めてだ。上手くできてよかった。
「よく頑張った」
ポン、と頭に大きな手が乗った。
「シルヴァン様……」
労われた。自然と笑みが浮かんだ。初めて自分で何かを成した。その実感が込み上げた。だけど達成感はあれど喜びはない。ラフィーナにとって父の存在は決して小さいものではなかった。例えそれが自分の思っていた父でなくても。
「……この魔法はいつまで続くのかしら。解けたらまた戦争が始まるのかしら?」
不安も残っている。どんよりと沈んだ心。だがシルヴァンは「はっはっは!」と豪快に笑った。
「これ以上のことは気にせずとも良い。後のことは俺が引き受けよう」
ピュイ、と口笛が鳴る。シルヴァンの視線が遠くへ向き、ラフィーナもそちらを見た。するとすぐに何かが見えた。黒い何か。4本足で走って来ているように見える。
「あれは……熊……?」
ルイーズの呆然とした声。黒い体はどんどんと近付き、すぐ側で止まった。ラフィーナは大きく目を見開いて熊を見る。大きい。驚くほどに大きいシルヴァンよりもはるかに。ラフィーナは恐怖を覚え、ルイーズへと体を寄せた。ルイーズの手が背中に触れる。
「クレイトス、お前これに勝てるか?」
「え、いえ……難しいかと……」
クレイトスの戸惑いを含んだ答えにシルヴァンはにかっと笑った。
「ならば誰も勝てないな。今後はこいつをずっと王の近くに置いておくことにしよう」
「そ、れは……熊も嫌なのでは……?」
その微妙にズレた言葉にクレイトスの動揺が見えた。しかしシルヴァンは「交渉済みだ」と笑う。
「もしもこの王がラフィーナ様の言葉に背くなら牢へ放り込もう。フェルナード家の力を持ってすれば国を一つ落とすことすらも容易い」
確かにな、とルイーズが熊を見ながら呟いた。その顔は少し引き攣っている。
「その時は次の王はそちらから頂こう。いい人材がいるであろう?」
「……はい?」
クレイトスらしくない、間の抜けた声だった。シルヴァンは熊をポンを叩き、その背中に跨った。のそのそと歩き出す熊。
「チビなのが玉に瑕だけどな!」
また会おう、と言いながら去って行く背中。1人残された王国の騎士が慌てた様子でドラウゼン王を馬の背中に乗せる。そしてラフィーナに向かって頭を深く下げ、馬に乗ると去って行った。
「イリスによろしくな!」
シルヴァンが振り返って手を上げる。ラフィーナは呆然としてそれを見る。クレイトスとルイーズが頭を抱えていた。
王国騎士もドラウゼン王もシルヴァンも小さくなり、砂埃にその姿が消えた。ラフィーナは深く息を吐いた。額を流れる汗を袖で拭う。
「喉が渇いたわ」
手首で鈴がチリンと鳴り、ラフィーナはそこで意識を失った。




