第47話 翌朝の速さが、昨日と違って聞こえた
翌朝、薬草園に出ると、一番はっきり聞こえたのはカイの足音だった。
砂利の上の、少し早めの歩調。いつもと同じ歩き方だった。昨日と全く変わっていない。なのに今朝は、その速さが昨日と違って聞こえた。足音の速さではなく、足音が届く距離が、昨日より短い気がした。
理由は分かっている。昨夜が来た、ということを、今朝の足音が知っているのだ。
「——もっと早く知りたかった」という感情の名前が、昨夜ようやく分かった。5年分の嬉しさが一度に来たから苦しかったのだ、と気づいた。苦しいのは悲しいからではなく、受け取りきれなかったからだった。それだけのことだった。それだけのことが、昨夜はしばらく分からなかった。泣かなかったのは、泣く前に笑ってしまったからだ。「嘘でした」という言葉が来たとき、まず笑った。自分でも少し驚いた。
染みの多い左手で、カモミールの朝露に触れた。冷たかった。湿っている。いつも通りの朝だった。
この手が5年間、差出人欄に名前を書いてきた。この手が薬草束に花を添えてきた。この手が昨夜、2輪の花を同時に持った。古い押し花の軽さと、新しいリュゼリカの冷たさが、それぞれ別の温度で来た。どちらが重かったか——どちらも重かった。「花1本が」と言った声が、今朝もまだ指先に残っている気がした。
5年間、この手が書いてきたものを誰も読まなかった。差出人欄の「ミラベル」を、薬務官も殿下も読み飛ばした。でも今は、「ミラベル」という名前を呼ぶ人間がいる。呼ぶ速さが昨日と今朝で違う人間が、砂利の上を歩いている。
薬草の茎を1本折った。昨日の自分と同じ速さで、でも昨日の自分と少し違う手つきで。
「で」
ベルタが来た。
「で? でとは」
「で?!」
「……薬草の品種改良について確認したいことがあって。特にこの季節の乾燥管理は——」
「今はそれどころじゃないですよ! お嬢様!」
ベルタは全力だった。私は鋏を持ったままだった。
「種の保存方法について、来週の出頭前に書類を整理しておきたいのですが」
「種は後です! 昨夜のことを! どうなったんですか!」
笑ってしまった。笑ったら「嬉しいです」という言葉が出た。
「……それだけですか!」
「それだけで十分です」
「十分なわけがないですよ! もっと言ってください!」
ベルタが言い続けるのを聞きながら、手が自動で薬草を選んでいた。「もっと言えるものがない」と思った。今朝の私の全部が「嬉しいです」という言葉の中にある。その外側に何もない。外側に何もないことが、今日は少しも淋しくなかった。5年間、「慣れてしまえば別に苦痛でもない」という文句を反芻してきた。今朝、その文句が頭に来なかった。来なかったことに、薬草を折りながら気づいた。
「……お嬢様、本当にそれだけですか」
ベルタが少し声量を落とした。珍しかった。
「はい。それだけです」
「……嬉しいんですよね」
「はい」
「……ならいいです」
いいです、と言ってから、ベルタが少し目を赤くした。泣くのかと思ったが、ぐっと我慢した顔をして「カイ様、薬草園の端にいます」と言った。この子はいつも、代わりに泣こうとする。
◇
薬草園の端で、カイが納品記録の書類を持って畝を確認していた。いつもの手つきだった。昨夜と同じ栗色の髪が、朝の光の中にある。外套を替えていた。12日分の埃が、今日はもうない。
「——ミラベル」
呼ばれた。
速さが昨日より少し速かった。昨夜の薬草園とも違う速さで、でも昨日の朝とも確実に違う速さで、来た。
「……何ですか」
「いいえ。——呼んでみただけです」
一拍だけ止まった。
薬草の朝露を持った指先が、その一拍の間だけ動かなかった。「呼んでみただけです」という言葉の意味が、1秒かけて届いた。届いた理由が分かった瞬間に、手が動いた。
「……余計ではありません」
「はい。——当然です」
同じ言葉が全く別の重さで交換された。
「余計ではありません」は私が言った。「当然です」はカイが言った。でも昨夜は「当然です」を私が言っていた。同じ言葉が今朝は逆向きで来た。それだけのことなのに、今朝の「当然です」の重さが昨夜のそれと全部違う気がした。
昨夜から「当然です」と「余計ではありません」を何度言い合っただろう。5年かかってたどり着いた言葉が、今朝は「ミラベル」という呼びかけの後に来る。5年前は、「当然です」という言葉の前に何もなかった。今朝は、前に名前がある。
その違いが、全部だった。
◇
午前のうちに、宮廷から文書が届いた。
封を開ける前に、差出人欄を確かめた。中央記録委員会書記官の名が入っている。受け取った手が少し止まった。止まった理由を確かめるより先に、封を切った。
「審議の方向が決定しました」という一行が最初にあった。
「……認定、ですか」
「はい。全部です」
カイが後ろに立っていた。
「認定の方向で」という文字を、もう一度読んだ。5年間、差出人欄に書いてきた名前が。誰も読まなかった差出人欄が。「マリエル・ヘルダ」として積み上がっていた5年分が——今、動いている。
「……5年分、全部ですか」
「はい。5年分、全部です」
カイの声が、今朝一番の「ミラベル」と同じ速さだった。
泣きそうになった。泣かなかった。泣く前に息を吸ったら、薬草の匂いがして、落ち着いた。
書類の後半に出頭の日付があった。来週だ。その隣に、一行だけ注記がある。「証人:エルンスト・リーデル(随行済み)」。
爺やの名前だった。
「……エルンスト爺やが」
「はい。申請の段階から、証人として名前を出していただいておりました」
「……知りませんでした」
「今日、お伝えするつもりでした」
エルンスト爺やが5年間、青い花を好んでいた。私は殿下のためではなく爺やのために花を添えていた。その小さなことを、爺やだけが知っていた。見ていてくれた人が——来週の委員会室に、証人として来る。
「……爺やに、知らせなくてよかったのですか」
「知らせるつもりです。——返事があれば、ですが」
「返事、とは」
「こちらから随行をお願いした際に、爺やはすぐに『承知しました。今日は証言が仕事ですので』とだけ返してこられました」
「今日は証言が仕事ですので」という言葉が、書斎の空気の中に落ちた。爺やらしかった。一言だけで全部を言う人だった。5年間、花を受け取るたびに「好みでして」とだけ言っていた人だった。
封書を机の端に置いた。
宮廷記録委員会は来週だった。その前に——薬草学会の発表がある。




