表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「完結済」私の名前を、婚約者だけが知りませんでした   作者: 夢見叶
第9章 名前が、宮廷を塗り替える

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

47/50

第47話 翌朝の速さが、昨日と違って聞こえた

 翌朝、薬草園に出ると、一番はっきり聞こえたのはカイの足音だった。


 砂利の上の、少し早めの歩調。いつもと同じ歩き方だった。昨日と全く変わっていない。なのに今朝は、その速さが昨日と違って聞こえた。足音の速さではなく、足音が届く距離が、昨日より短い気がした。


 理由は分かっている。昨夜が来た、ということを、今朝の足音が知っているのだ。


 「——もっと早く知りたかった」という感情の名前が、昨夜ようやく分かった。5年分の嬉しさが一度に来たから苦しかったのだ、と気づいた。苦しいのは悲しいからではなく、受け取りきれなかったからだった。それだけのことだった。それだけのことが、昨夜はしばらく分からなかった。泣かなかったのは、泣く前に笑ってしまったからだ。「嘘でした」という言葉が来たとき、まず笑った。自分でも少し驚いた。


 染みの多い左手で、カモミールの朝露に触れた。冷たかった。湿っている。いつも通りの朝だった。


 この手が5年間、差出人欄に名前を書いてきた。この手が薬草束に花を添えてきた。この手が昨夜、2輪の花を同時に持った。古い押し花の軽さと、新しいリュゼリカの冷たさが、それぞれ別の温度で来た。どちらが重かったか——どちらも重かった。「花1本が」と言った声が、今朝もまだ指先に残っている気がした。


 5年間、この手が書いてきたものを誰も読まなかった。差出人欄の「ミラベル」を、薬務官も殿下も読み飛ばした。でも今は、「ミラベル」という名前を呼ぶ人間がいる。呼ぶ速さが昨日と今朝で違う人間が、砂利の上を歩いている。


 薬草の茎を1本折った。昨日の自分と同じ速さで、でも昨日の自分と少し違う手つきで。


「で」


 ベルタが来た。


「で? でとは」

「で?!」

「……薬草の品種改良について確認したいことがあって。特にこの季節の乾燥管理は——」

「今はそれどころじゃないですよ! お嬢様!」


 ベルタは全力だった。私は鋏を持ったままだった。


「種の保存方法について、来週の出頭前に書類を整理しておきたいのですが」

「種は後です! 昨夜のことを! どうなったんですか!」


 笑ってしまった。笑ったら「嬉しいです」という言葉が出た。


「……それだけですか!」

「それだけで十分です」

「十分なわけがないですよ! もっと言ってください!」


 ベルタが言い続けるのを聞きながら、手が自動で薬草を選んでいた。「もっと言えるものがない」と思った。今朝の私の全部が「嬉しいです」という言葉の中にある。その外側に何もない。外側に何もないことが、今日は少しも淋しくなかった。5年間、「慣れてしまえば別に苦痛でもない」という文句を反芻してきた。今朝、その文句が頭に来なかった。来なかったことに、薬草を折りながら気づいた。


「……お嬢様、本当にそれだけですか」


 ベルタが少し声量を落とした。珍しかった。


「はい。それだけです」

「……嬉しいんですよね」

「はい」

「……ならいいです」


 いいです、と言ってから、ベルタが少し目を赤くした。泣くのかと思ったが、ぐっと我慢した顔をして「カイ様、薬草園の端にいます」と言った。この子はいつも、代わりに泣こうとする。



 薬草園の端で、カイが納品記録の書類を持って畝を確認していた。いつもの手つきだった。昨夜と同じ栗色の髪が、朝の光の中にある。外套を替えていた。12日分の埃が、今日はもうない。


「——ミラベル」


 呼ばれた。


 速さが昨日より少し速かった。昨夜の薬草園とも違う速さで、でも昨日の朝とも確実に違う速さで、来た。


「……何ですか」

「いいえ。——呼んでみただけです」


 一拍だけ止まった。


 薬草の朝露を持った指先が、その一拍の間だけ動かなかった。「呼んでみただけです」という言葉の意味が、1秒かけて届いた。届いた理由が分かった瞬間に、手が動いた。


「……余計ではありません」

「はい。——当然です」


 同じ言葉が全く別の重さで交換された。


 「余計ではありません」は私が言った。「当然です」はカイが言った。でも昨夜は「当然です」を私が言っていた。同じ言葉が今朝は逆向きで来た。それだけのことなのに、今朝の「当然です」の重さが昨夜のそれと全部違う気がした。


 昨夜から「当然です」と「余計ではありません」を何度言い合っただろう。5年かかってたどり着いた言葉が、今朝は「ミラベル」という呼びかけの後に来る。5年前は、「当然です」という言葉の前に何もなかった。今朝は、前に名前がある。


 その違いが、全部だった。



 午前のうちに、宮廷から文書が届いた。


 封を開ける前に、差出人欄を確かめた。中央記録委員会書記官の名が入っている。受け取った手が少し止まった。止まった理由を確かめるより先に、封を切った。


「審議の方向が決定しました」という一行が最初にあった。


「……認定、ですか」

「はい。全部です」


 カイが後ろに立っていた。


 「認定の方向で」という文字を、もう一度読んだ。5年間、差出人欄に書いてきた名前が。誰も読まなかった差出人欄が。「マリエル・ヘルダ」として積み上がっていた5年分が——今、動いている。


「……5年分、全部ですか」

「はい。5年分、全部です」


 カイの声が、今朝一番の「ミラベル」と同じ速さだった。


 泣きそうになった。泣かなかった。泣く前に息を吸ったら、薬草の匂いがして、落ち着いた。


 書類の後半に出頭の日付があった。来週だ。その隣に、一行だけ注記がある。「証人:エルンスト・リーデル(随行済み)」。


 爺やの名前だった。


「……エルンスト爺やが」

「はい。申請の段階から、証人として名前を出していただいておりました」

「……知りませんでした」

「今日、お伝えするつもりでした」


 エルンスト爺やが5年間、青い花を好んでいた。私は殿下のためではなく爺やのために花を添えていた。その小さなことを、爺やだけが知っていた。見ていてくれた人が——来週の委員会室に、証人として来る。


「……爺やに、知らせなくてよかったのですか」

「知らせるつもりです。——返事があれば、ですが」

「返事、とは」

「こちらから随行をお願いした際に、爺やはすぐに『承知しました。今日は証言が仕事ですので』とだけ返してこられました」


 「今日は証言が仕事ですので」という言葉が、書斎の空気の中に落ちた。爺やらしかった。一言だけで全部を言う人だった。5年間、花を受け取るたびに「好みでして」とだけ言っていた人だった。


 封書を机の端に置いた。


 宮廷記録委員会は来週だった。その前に——薬草学会の発表がある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ