第46話 嘘でした——最初から好きだったので
「今夜」という言葉が、一日の中で一番長い時間になった。
夕暮れが書斎の窓から差し込んでくる間、私は帳面に向かっていた。招聘受諾書の写しを整理するつもりだったが、手が先に動いていた。書いていた字が、気づくと「ミラベル」だった。自分の名前だった。誰かへの届け文でも書類の差出人欄でもなく、ただ自分の名前だけが帳面の途中にあった。
いつそう書いたのか分からなかった。
手が覚えていたのかもしれない。5年間、差出人欄に書き続けた名前が、今夜は別の理由で出てきた気がした。「帰ってきてから言います」という言葉がある。「今夜言います」という言葉もある。その2つが同じ夜に置かれていることが、今も少し信じられない。
窓の外に山の稜線が見えた。暗くなるにつれて、稜線だけが青黒く残っている。あの山の上に、リュゼリカの群生地がある。「帰りの道で摘みました」という言葉が、出発のとき何を意味していたか、今夜ようやく形になった。
帳面の「ミラベル」という字を、もう一度見た。書いた理由は分からない。でも書いた字は本物だった。
ベルタが扉を叩いた。「カイ様、書斎の前にいらっしゃいます」と言った。
私は帳面を閉じた。
◇
廊下に出ると、カイが立っていた。旅装の埃がまだ少し落ちていない。12日分の埃だ。急いで帰ってきた人の足跡が、まだ外套に残っていた。
「……書類の整理は」
「終わりました」
「そうですか」
「——今夜ですか」
カイが「はい」と言った。その「はい」の温度が、今まで聞いてきた全ての「はい」と違った。実務の「はい」でも、確認の「はい」でもなかった。準備が終わった人間の声だった。
「どこで話しましょうか」と彼が聞いた。
「薬草園でいいですか。——あそこの空気が、一番正直な気がするので」
薬草の匂いの中なら、正直でいられる気がした。5年間、薬草と一緒に積み上げてきたものがある。だからその場所で聞きたかった。そういう場所で聞くべきだと思った。
◇
夜の薬草園に出ると、月の光が束の間に落ちていた。カイが止まった。
「——嘘でした」という言葉が来た。
一拍、何のことか分からなかった。
「名前を呼ぶ正当な理由として婚姻は最適、と言いましたが」とカイが続けた。「あれは嘘でした。最初から好きだったので、最初から呼びたかっただけです」
喉の奥に何かが詰まった。泣くのかと思ったが、泣かなかった。泣けなかったのではなく、こみ上げてきたのが笑いの方だったからだ。変な人だと思った。変な言い方だと思った。でもその変さが、今夜は何より正確だった。
「……嘘だったのですか」と私は言った。
「はい。全部嘘でした。3年間も、論理で包んでいたものが全部。——すみません」
「謝らないでください」
「どうしてですか」
少し間があった。月の光の中で、薬草の葉が揺れた。カモミールの白い花が、夜の中でも白かった。
「……もっと早く聞きたかったので」
それが今の私の全部の答えだった。
◇
カイが間を置いて、懐に手を入れた。
出てきたのは2輪だった。1つは押されて薄くなった花。もう1つは、今日摘んだばかりの、青みがかった小さな花弁を持つ1輪。どちらも同じ紫色をしていた。
「古いほうは、あなたが最初に添えてくれた花です。3年前、貴賓棟に届けていただいた、あの一輪です」
「……3年前の」
「はい。新しいほうは、帰りの道で摘みました。群生地の、一番咲いているものを選びました」
差し出された2輪に、手を伸ばした。古いほうは乾いて軽かった。指で持つと、ほとんど重さがない。でも色だけは抜けていない。3年間、誰かの懐の中にあって、それでも色が残っている。新しいほうは少し冷えていて、花弁の端がまだしっかりしていた。両方を同時に持つと、片方は3年前の重さを持っていて、もう片方は今日の温度を持っていた。
「……重いですね」
声が出た。
「はい」とカイが言った。「花1本が」
「花1本でした。最初は」
「——最初から、その1本が全部でした」
その言葉が薬草の匂いの中に落ちた。嬉しいとだけ思うには、少し大きすぎた。「もっと早く知りたかった」という感情はまだそこにある。でも今夜、その感情の名前が少し変わった気がした。怒りでも悔しさでもなく——嬉しさの、もっと大きい形だった。
◇
薬草の匂いが夜の冷気の中に薄く広がっていた。手の中に2輪の花がある。古い1輪は軽く、新しい1輪は少し冷たい。2つを持ったまま、次の言葉が出るのを待った。でも待たなくていい、と思った。
「——カイ」
声が出た。準備より先に出た。呼ぼうとして呼んだのではなく、名前が手より先に動いた。自分の声なのに、速さが少し意外だった。
カイが止まった。完全に止まった。振り返った。灰青の瞳が月の光の中にあって、耳が——暗くて確認できなかったが、おそらく赤くなっていた。
「……初めてですね」
「はい。——でも、ずっと呼びたかった気がします」
「そうですか」
「嘘ではないですよ」
「……私も」とカイが言った。「嘘ではありませんでした。全部」
「知っています」と言った。「——もっと早く知りたかっただけです」
カイが一拍だけ黙った。次の言葉を選ぶ顔ではなかった。確かめる顔だった。それから、少し低い声で言った。
「——毎日ミラベルと呼んでいいですか」
心臓が一拍だけ止まった。止まったのは驚きで、動き出したのは答えが最初から決まっていたからだった。
「当然です」
2輪の花が手の中にあった。古い1輪と、新しい1輪。「当然です」という言葉が夜の薬草園に出ていって、薬草の匂いが静かにそれを受け止めた。
遠くから、ベルタの声がした。聞き取れるかどうかの音量で——でも聞こえた。
「……来ましたね」
薬草の葉が、月の光の中でゆっくり揺れた。




