第45話 「今夜」という言葉が、一日の中で一番長い時間に感じた
薬草学会から「発表準備のための辺境訪問受け入れ要請」が届いたのは、カイが出発して3日後のことだった。10日以内に返答を、と書いてあった。
「受けます」と言った。
「カイが戻ってきてから」と言いかけた。――でも止まった。「この答えは私一人で出せる」と思ったから止まった。帰ってきてから相談する。それも一つの返し方だ。でも今日、封書を開いて「受けます」と言ったとき、その言葉はもう決まっていた。誰かの意見を聞く前から。
「これは!」ベルタが弾んだ声を出した。「まだ返答もしていません」「でも受けますよね!」「……検討します」「それはもう受けるということですよね!」「……検討します」「2回言っても!」
笑ったら、「受けます」という言葉が出た。
◇
書斎で返答書を書いた。
ペンを持ちながら、差出人欄に書く名前を1拍だけ確かめた。ためらいではなかった。確かめた、というより、ここに書いていいということを改めて思った、という感じだった。
「受諾いたします。辺境薬草園管理者、ミラベル・ヴェストール」
自分の名前を書いた。「ヴェストール」という姓は、辺境伯夫人が「ミラベル殿」と呼んでくれた日からこの土地に根を張り始めた名前だ。王都では5年間、差出人欄にしかなかった名前が、今日は「受諾します」という言葉の隣にある。書いたから、あった。
封蝋を押した。
窓から山が見えた。リュゼリカの山だった。カイが押し花を懐から取り出した場所が、あの山の上にある。3年前の一輪が、あの群生から来ていた。それを届けた自分が、今ここに名前を書いている。遠回りのようで、たぶん遠回りではなかった、という感覚がある。
◇
廊下に出ると、ベルタが待ちかまえていた。
「カイ様、今どのあたりにいますか」
「……分からないわ」
「嘘ですよね」
「……帰りは12日後です」
「そうでしょう!」
帰りが12日後だと知っていた。3日前から知っていた。なぜ知っているかというと、出発の前日から覚えていたからだ。「帰ってきてから言います」という言葉も、「明後日には帰ります」という言葉も、一緒に持っている。
封蝋を押した指先がまだ少し熱かった。
◇
その日の夕方から、薬草の束に花を選ぶとき、手が迷わなくなった。
届け先の人のことを思い浮かべて選ぶ、という習慣が5年間あった。誰のために選ぶかを考えながら手が動く。でも今日は考える前から決まっていた。カイがいない薬草園で、それでも誰かのために選んでいた。「辺境に毎日花を添えてください」――「当然です」。あの声の震えが、今日も花の茎の上にある気がした。「当然です」と言った自分が、誰のために言ったのか、今日はもう確かめなかった。
◇
薬草園に一人でいると、「――カイに言いたい」という気持ちが来た。
「帰ってきてから聞く」の向こうに、自分も言いたいことがある、と今日初めてはっきり気づいた。
ずっと、聞く側だと思っていた。「帰ってきてから言います」という言葉を受け取る側。「知っています」と言うことはできたが、それは受け取る言葉だった。でも今日、返答書に名前を書いたとき、「聞く」だけでは終わらないものが自分の中にある、と分かった。言いたいことが複数ある、と気づいて、少し驚いた。
5年間、誰にも名前を呼ばれなかった。正しく呼ばれることを諦めていた。「慣れてしまえば、別に苦痛でもない」という文句を何度反芻しても、その味は変わらなかった。――でも今は違う。「ミラベル」と呼ばれることが怖くない。怖くないどころか、呼ばれる前から分かっている。呼ばれた後も、残る。
その「残る」という感覚が、自分の言いたいことと同じ場所にあった。
◇
封を押した日から2日後の朝、ベルタが「カイ様、明後日帰ってきます」と言った。「……知っています」「知っていてその顔ですか!」「どんな顔ですか」「……困っていない顔です」。返せる言葉がなかった。
明後日の朝、カイが旅装のまま少し急いだ足で玄関に入ってきた。
「ただいま戻りました」
「おかえりなさいませ」
12日後が、今日になっていた。
数えていたわけではなかった。でも朝、薬草の束を整えながら「今日だ」と思った。理由を確かめるより先に分かっていた。ベルタが「今日ですよ!」と言いに来た。「知っています」と答えた。ベルタが「お嬢様の今日は珍しく早い!」と言った。
「招聘の返答は」
「出しました。受けます、と」
「……そうですか」
一拍あった。カイが少し息を吐いた。旅装の外套に埃がついていた。12日の埃だ。急いで帰ってきた人の足取りをしていた。
「――言ってもいいですか、今」
後ろでベルタが「いよいよですよ!」と囁いた。囁きの音量ではなかったが、聞こえなかったことにした。
「はい」
カイが止まった。
「ミラベル」
「はい」
「――ずっと」
そこで止まった。
止まったまま、カイが1度だけ目を落とした。探す、という顔ではなかった。確かめる、という顔だった。灰青の瞳が、少しだけ何かをこらえているように見えた。耳が、赤くなっていた。
「……続きは」
「長い話になります」
「なりません」
「……少し待ってください」
「どのくらい」
「……今夜」
「今夜」という言葉が、玄関に落ちた。
どんな言葉が来るか分かっていた。知っているのに、まだ怖かった。怖さの中に、今日は別の感覚が混じっていた。怖いのに逃げない自分が、最初からここにいた。
左手の染みを1度だけ見た。この手が書いた記録が、今、別の場所で審議されている。この手が届けた花が、3年間、誰かの胸の中にあった。この手で今日の2日前、自分の名前を書いて封を押した。それが全部、「今夜」という言葉の前にある。
「――分かりました。今夜、聞きます」
カイが1拍止まった。耳が赤いまま、視線をこちらに向けた。何も言わなかった。言わなかった方が、今日は重かった。
◇
ベルタがそっと袖を引いた。
「お嬢様も言いたいことがあるんですよね」
「……ベルタ」
「はい」
「少し静かにしていてください」
「――はい」
珍しく素直だった。
「今夜」という言葉が、一日の中で一番長い時間に感じた。どんな言葉が来るか分かっていたのに、知っているのに、まだ怖かった。――でも今日の怖さは、5年前とは違う怖さだった。自分の言いたいことを持った人間の怖さだった。
窓から山が見えた。あの山の上に、今夜も花が揺れているだろう。「今夜」という一語が終わった後に何が始まるか、そのことを考えながら、帳面を開かなかった。今日だけは、書かずに待つことにした。




