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「完結済」私の名前を、婚約者だけが知りませんでした   作者: 夢見叶
第8章 愛している——と言う前の、最も長い沈黙

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第44話 「当然です」と言った声の最後が、震えた

 昨夜の帳面に「名前がついた」と書いた。でも何の名前なのかは書けなかった。出発の前日が来た。


 乾燥室の温度記録を仕上げながら、染みの手を一度だけ見た。


 カイが「この手が書き続けた記録が――」と言って止まった。「何ですか」と聞いた。「……この手が書き続けた記録が、証拠になります」。


「……染みが多い手ですが」


「はい」


「はい、だけですか」


「……十分すぎるくらいです」


 「十分すぎる」の意味が書類に向いているのか手に向いているのか分からなかった。どちらでもあったかもしれない。どちらでもあっていいとも思った。


 証拠として、という意味だと思った。でも声が低かった。証拠だけを言う声ではなかった。聞き返さなかった。書類の端を指先で押さえた。今日は書類を閉じるまでは動かさないでいたかった。


「ベルタが荷物の梱包を確認しておりました」とカイが言った。「……何を」「本の順番に意見がありました」「どんな」「読めなくなるから最後にしろ、と」「……ベルタの言う通りです」「そうですか」「旅の途中で読むものがないのは困ります」。一拍あった。「……本以外は読みますが」という声が少し困っていた。何を読むという話なのか分からなかった。聞かなかった。



 書類を、照合に持っていく分と辺境に残す分に仕分けた。カイが手際よく動いた。書類の扱い方を最初から知っていた人間の指先だった。その指先が、たまに止まる。書類の端を一度押さえてから、また動く。昨日も一昨日も同じ止まり方をした。


「帳面の今日の分は、後で書きます」と言った。「はい」「昨日の分はもう書きましたか」「……少し」「何を書きましたか」「……まだ名前がついていないことを書きました」。カイの指先が止まった。「何の名前ですか」「……帰ってきてから、話します」。少し間があった。「……そうですか」という声が、実務の温度ではなかった。



 昼過ぎ、ベルタが「朝採りが終わっていませんよ!」と言いに来た。「……後でやります」「明日からはお嬢様が一人でやるんですよ! 12日もあるんですよ!」「12日は長くないです」「長い!」。廊下に響いた。「カイ様の荷物に何か入れましたか」「……入れていません」「じゃあ私が」「何を入れるのですか」「辺境に向けた念です」「入りません」。ベルタが急に声量を落とした。「……お嬢様、今日の顔が少し違います」「どう違うのですか」「疲れていない顔です」「……疲れていないのかもしれません」「それはいいことですよ!」。笑えた。笑ったことに少し驚いた。



 夕方、薬草園で花を選んでいると、カイが来た。


「明日出発します」「はい。――行ってらっしゃいませ」「帰ってきたら言います」「はい、知っています」。


 一拍あった。


「……辺境に――毎日花を添えてください」


 手が止まった。「花を添えてください」が来るとは思っていなかった。「薬草の管理を」か「書類の続きを」だと思っていた。でも「花を添えてください」だった。


「……当然です」


 声の最後が、震えた。


 自分の声が震えていることに、言い終わってから気づいた。気づいた瞬間、左手が花を持ち直した。誰にも見えなかったが、カイには聞こえたかもしれない。


「――当然です」とカイが繰り返した。同じ言葉が別の温度で来た。


 薬草の茎を持ったまま、次の花を選べなかった。届け先の人を思い浮かべて選ぶという習慣があった。今日は思い浮かべる前から分かっていた。誰のために選んでいるかが、最初から決まっていた。その「決まっていた」という感覚が、声が震えた場所と同じところにあった。



 宮廷から「功績調査・審議開始通知」が届いたのは、その夜だった。「1ヶ月以内に方向が決まります」とカイが言った。「……カイ」「はい」「帰ってきてから――ちゃんと聞きます」「はい」「……どんな話でも」。「……分かりました」と彼は言った。


 封書を机の端に置いた。1ヶ月以内。カイが帰るまで12日。二つの数字が並んで机の上にある感じがした。「動いています」とカイが言った。「あなたが書いたものが、今、動いています」。染みの手を一度見た。この手が書き続けた記録が、今、別の場所で読まれていた。怖くはなかった。今日の夜だから怖くなかったのかもしれない、と思った。



 翌朝、カイが出発した。馬に乗る前に一度だけ振り返った。振り返っただけだった。


 ベルタが「振り返りました」と囁いた。「はい」「意味があります」「癖かもしれません」「今日だけです!」。声が半音上がった。返せる言葉がなかった。



 声が震えた理由を、その日の夜になっても、まだ「疲れかもしれない」と思おうとした。――でも疲れではなかった。


 帳面に書いた。「花を添えてください」が来るとは思っていなかったこと。「当然です」と言った声の最後が、震えたこと。カイが同じ言葉を別の温度で繰り返したこと。


 書き終えてから、もう一行だけ書いた。


 ――「帰ってきてから聞く」が、今日より少し確かになった。


 窓の外に山の稜線が見えた。審議結果の方向が決まるまで1ヶ月。カイが帰ってくるまで、2週間。どちらの期限が先に来るか、その夜は分からなかった。

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