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「完結済」私の名前を、婚約者だけが知りませんでした   作者: 夢見叶
第8章 愛している——と言う前の、最も長い沈黙

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第43話 先に「知っています」と言ったのは、私のほうだった

 山から帰った翌朝、薬草の朝露に指先が触れたとき、「もっと早く届けばよかった」という感情があることに気づいた。


 昨日の話ではない。3年前の話だ。3年前、私は毎日貴賓棟にリュゼリカを届けていた。誰が受け取るかは考えなかった。届け先の人のことを思い浮かべて選ぶという習慣があった。あの頃の貴賓棟の誰かのために選んでいた。——その誰かが、3年間その花を持ち続けていた。


「もっと早く届けばよかった」という感情の名前が、まだつかない。でもそれが嫌な感情ではないことだけは分かった。


 葉の水を手のひらで払った。指先がまだ少し冷たかった。昨日、山の上で押し花を受け取ったとき、カイの掌から伝わってきた温度と同じくらい、冷たかった。同じでも、違った。昨日の冷たさには重さがあった。今日の冷たさは朝露の、普通の感触だった。


 その「普通」に、昨日の帰り道から少し違う意味がついていた。



「王都から書類が届いています」


 ベルタが薬草園の入り口で封書を持っていた。


「乾燥室の温度記録および保管注記の実筆確認——追加照合要求です」


 受け取った。宮廷記録委員会の印がある。予想はしていた。温度記録は5年分を私が書いた。筆跡は私のものだ。照合が来るのは当然だった。


「書けます」


「書けますって——昨日山から帰ってきたばかりじゃないですか!」


「書類は待ってくれないわ」


「お嬢様の方が待たせすぎです! 自分のことを!」


 ベルタの怒りは正確なぶんだけ、少し笑えた。「声が大きい。薬草が驚く」「薬草は驚きません!」——カイが薬草園の柵の内側に立っていた。いつから来ていたのか気づかなかった。封書を見てから、私を見た。


「……昨日」


「どうしましたか」


「……いいえ」


「言いたいことがあるなら」


「はい。——でも今は書類の方が先です」


 その「先」が、少し苦しそうだった。ベルタが袖を引いて「昨日何かあったんですか」と囁いた。「薬草の調査でした」「うんうん、調査!」「……調査です」「はい!」。カイが「書斎に移りましょう」と言った。ベルタへの返答は省いた。



 書斎で封書を広げた。追加照合の範囲——乾燥室の温度記録、月次の保管注記、年次の品質記録、3年前からの分すべて。量は多い。でも全部私が書いた。書類に指先を置くと、手が覚えていた。書き続けた手は、書いたものを忘れない。


 カイが書類の束を整えながら、隣に座った。


「明後日、出発することになりました」


 手が止まった。


「功績調査の証人と書記官の同行を手配しました。王都で直接、照合に立ち会う必要があります」


「……いつ帰りますか」


「12日後を予定しています。審議の日程次第で前後するかもしれません」


 帳面の端に指先を置いたまま、「12日後」という数字が机の上に落ちる音を聞いた。音はないのに、落ちた気がした。


「あなたは辺境で待っていてください」


「……帰ってきてから、ですか」


「はい。帰ってきてから——」


 一拍、あった。カイの指先が書類の端に触れた。何かを確かめるような触れ方だった。


「——言います」


「何を」


「……長い話になります」


 知っています、と言った。


 声に出してから気づいた。カイが一拍止まった。書類の上の指先が静止した。「知っています」という言葉が出た後、何を知っているか、まだ言葉にできない。でも言った。声に出したから、言ったことは本当だった。


「それでも聞きます、帰ってきてから」


 カイが私を見た。一秒だけ、まっすぐに。灰青の瞳が、書類でも帳面でもなく、私を見た。それから視線が落ちた。


「……はい」


 その声が、普段より少し低かった。



 書類の整理を続けた。カイが出発の準備を順番に話した。証人の人選、王都への連絡文書、証拠書類の梱包方法。実務の声は安定していた。でも指先が時々かすかに止まる。書類に触れながら一度だけ宙で止まって、また動き出す。何かを考えるとき、カイの手は触れるものを探す。気づいたのは最近だ。


「——ミラベル」


「はい」


「……知っています」


 カイが言った。私が言うはずの言葉が返ってきた。


「何を」


「あなたが全部残す人だということを」


 その声が低かった。左手の染みを一度だけ見た。この手が書き続けたものが、今、照合の対象になる。この手が届けた花を、あの人は3年間持ち続けていた。——「知っています」と私が先に言ったのに、カイが同じ言葉を返してきた。ということは今日、「知っています」は2人分あった。



 夕方近くに、カイが書斎を出ていった。廊下を歩いていく後ろ姿を見た。


 怖かった。


 後ろ姿を見ていたら、少し怖かった。怖いという感情が来た瞬間、足が一歩動いた——でも止まった。何かを言おうとした。言えなかった。廊下が静かになった。自分の息だけが聞こえた。


 帳面を開いた。今日の記録を書こうとした。書けなかった。「怖かった」という感情に、まだ名前がない。名前の候補が多すぎて、一つに絞れなかった。



 出発は3日後だった。


 3日間、カイは書類の整理を続けた。私も照合用の記録を整えた。同じ書斎で、同じ書類に向かって、隣り合って座った。「昨日」と言いかけた言葉は、3日間でも出てこなかった。出てくるたびに、別の実務の話になった。


 2日目。「備考欄の注記が、2年目だけ密ですね」「その年は乾燥室に水漏れがありました。修繕の記録を全部書き留めておいた」「……全部残してあるんですか」「残しておかないと次の担当者が困ります。残しておけば証拠になる——今みたいに」。カイが少し黙った。「……最初から、そのつもりでしたか」「そのつもりはありませんでした。残す癖があるだけです」。返答がしばらくなかった。それから「……そうですか」とだけ言った。その声が、実務の温度ではなかった。


 3日目の夕方、カイが荷物の梱包を終えた。「明日の朝に出発します」「分かりました」。一拍あった。「——ミラベル」「はい」「帰ってきてから」「……知っています」「3回目ですか」「はい」。カイが笑った。笑ったまま、出ていった。



 夜、帳面を開いた。


 ——3日間で、私の中の何かに名前がついた。ただそれが何の名前なのか、まだ言葉にできなかった。


 書きながら、その名前を確かめようとした。「もっと早く届けばよかった」は後悔だけではなかった。「怖かった」は怖さだけではなかった。「知っています」と言った後で、知らなかったことがひとつ増えた気がした。


 窓から山の稜線が見えた。押し花は今頃カイの荷物の中にある。「12日後」という数字は3日前から頭の中にある。覚えていようとして覚えているのではなく、最初から頭の中にあった。


 帳面に日付と一行だけ書いた。


 ——帰ってきてから、聞く。今日より少し、確かな気持ちで。

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