第42話 3年前の一輪と、今も咲いている花が、同じ場所に並んだ
出発の前に、ベルタが「カイ様、お嬢様と山に行くんですか!」と聞いた。「薬草の調査です」とカイが答えた。「調査! うんうん! 薬草! うんうん!」ベルタは全然信じていない顔で頷いた。「……調査です」「はい!」声が弾んでいた。
山道に入ると、カイが歩調を少し遅くした。
「どこへ行くんですか」「少し上です」「薬草の調査で、上まで行くんですか」「……はい」「それだけですか」「長い話になります」「なりません」「——なります」
一時間ほど登ると、開けた場所に出た。
最初に目に入ったのは、青みがかった小さな花の群れだった。風で揺れていた。見覚えがあった。貴賓棟に届けるとき、辺境から取り寄せたと聞いた。でも辺境のどこで採れるのかは知らなかった。
「これが——」
「はい。3年前に、王都で見た花です」
「辺境にしかない花が、なぜ宮廷に」
「あなたが届けていました、貴賓棟に」カイが言った。「——なぜかと思いました。三年、思い続けました」
「……私が届けた一輪が、ここから来ていたと」
「はい。——なら、届けた人も、ここから来ていると思いました」
風が吹いた。群生のリュゼリカが揺れた。カイが懐から何かを取り出した。乾燥して薄くなった花が一輪、手のひらの上にあった。3年前の花だった。今も生きている群生地と、3年分の時間が積み重なった一輪が、同じ場所に並んだ。
「……3年間、持っていたのですか」「はい」「なぜ」「……なぜかは長い話になります」「今ならしてもいいですよ」「——あなたが届けた花が、ここから来ていた。なら、届けた人も、ここから来ていると思いました」「……ずいぶん遠回りな理屈ですね」「よく言われます」——カイが笑った。
笑った顔を見た。3年前の一輪と今も咲いている花が並んでいる場所で、カイが笑っていた。それが全部だった気がした。
◇
手を伸ばしかけて、止まった。
3年分の時間が薄く乾いた押し花は、カイの掌の上にある。触れたら崩れる気がした。でも見ている間に、落としてしまいそうで怖かった。
「……持ってもいいですか」
カイが何も言わずに差し出した。受け取った。馬車の中で最初に受け取ったときと同じ温度をしていた。あのときは出来事を渡された感覚があった。今日は時間を渡された気がした。指先より少し冷たいのに、重かった。
「……色が残っています」
「辺境の乾燥した空気のおかげです」
「3年分の空気ですね」
カイが何かを言いかけた。灰青の瞳が一度こちらを向いて、それから群生の方に動いた。言いかけたものが内側へ戻っていく。その戻り方が丁寧すぎて、少し苦しかった。
群生の縁に一歩だけ近づいた。花が風に揺れた。辺境の風は王都より強い。それでも花は揺れながら折れなかった。この土地の風を知っていた。自分が届けた一輪も、ここから来た花だった——届けた先で、別の形で生き続けていた。
「届けた理由は——それだけでしたか」
押し花に目が落ちた。誰に頼まれたわけでもなかった。辺境から取り寄せられると知ったとき、使節の出身地を調べた。届け先の人のことを思い浮かべて選ぶ、という習慣の通りにやった。それだけだった。届けた先に誰がいたか、あの頃の自分は知らなかった。
「それだけでした」
「そうですか」とカイが言った。一拍置いてから、また口を開いた。「それだけの理由で、わざわざ取り寄せたのですか」
「……費用は薬草園の予算内に収めました」
笑いをこらえるような間が一拍あって、カイは「……そうですか」とだけ答えた。「そういうことではありません」が来ると思っていたが、来なかった。来なかった方が、少し苦しかった。
左手の染みを見た。この手で届けた一輪が、この山から来ていた。自分が選んで届けた花が、回り道をして自分をここまで連れてきた、という感覚がある。その感覚に名前をつけると、別のものの名前に近づいてしまう気がした。
「3年前の自分に、教えてあげられるなら教えたいです」
声に出すつもりではなかった。
「何を」
「この花がどこから来るのかを。知っていたら——」
止まった。知っていたら何をしたかったのかが、まだ分からなかった。もっと丁寧に選んだかもしれない。もっと早く届けたかった、という気持ちが少しある。でもその「もっと早く」の向こうに何があるのかが、言葉にならない。
「知っていたら——何ですか」
「……長い話になります」
言ってから気づいた。カイの言い方がうつっていた。カイが一拍止まって、それから笑った。耳が赤かった。押し花を返した。カイが懐に戻した。3年前の花が、また胸の内側に帰っていった。
群生がまた揺れた。根を張っているから折れない。送り出した花が戻ってくる場所がある——という事実が、じわじわと遅れてきた。
◇
山を下りる道は、登りより黙っていた。
気まずくはなかった。今日初めて、沈黙に種類があることを知った。気まずい沈黙と、充実した沈黙は別のものだった。今日の沈黙は後者だった。何かをたくさん抱えているから黙っている。その黙り方が、軽くなかった。
「戻ったら書類の確認をします。——宮廷記録室から、追加の請求が届くかもしれません」
「分かりました。対応できます」
「……知っています」
短かった。確認以上の何かが混じっていたが、整理する前に言葉は終わった。道が少し開けて、谷間の向こうに辺境の平野が見えた。ここから辺境が見える。この高さまで、今日登ったのだ、と思った。
◇
屋敷に戻ると、ベルタが廊下で待っていた。
「どうでしたかっ、薬草調査!」
「群生地でした」
「薬草の群生地ですか!」
「リュゼリカの」
「——リュゼリカ!」声が半音上がった。「お嬢様の顔が! いつもと違います!」
「どう違うのですか」
「……困っていない顔です」
聞き返そうとした。でも聞かなかった。聞いたら認めることになる。正確すぎた。
◇
夜、帳面を開いた。
今日の記録を書こうとして、ペンが止まった。3年前の押し花と今日の群生地を、同じ場所で並べて見た。その重さをどう書くか分からなかった。「もっと早く知りたかった」という気持ちが少しある。でもその感情に名前をつけると、別のものの名前に近づいてしまう気がした。今日はまだつけなかった。
日付と、一行だけ書いた。
——群生地にリュゼリカが咲いていた。3年前の押し花と、今日の花が、同じ場所に並んでいた。
書いたから、あった。
窓の外に山の稜線が見えた。あの山の上に、今夜も花が揺れているだろう。見えないものが、今日はあの山の上に確かにあった。
書斎の扉が半分開いた。カイが書類を持って顔を出した。
「照合の順番をひとつ変えます。明日の朝に確認を」
「分かりました」
一拍あった。カイが出ていきかけた。扉の前で、止まった。
「……今日は——」
続きは来なかった。ただ止まり続けて、それから歩いた。扉が閉まる音がした。
帳面の一行を、もう一度見た。書いた言葉は同じなのに、今日は違う重さをしていた。
「今日は——」という途切れた声が、部屋にまだある気がした。続くはずのものがあった。それだけは確かだった。——その続きが何であるか、明日になったら少し分かる気がした。




