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「連載版」私の名前を、婚約者だけが知りませんでした   作者: 夢見叶
第8章 愛している——と言う前の、最も長い沈黙

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第41話 余計ではありません、の意味が今日は違います

 昨日の夜の書類の字と、昨日のカイの横顔を、翌朝になっても思い出した。


 書類は整理できた。字は全部自分のものだと分かっている。でも横顔は、まだ整理できていなかった。書類を見ているのに「書類を見ている顔」ではなかった。その顔に名前をつけられないまま朝になった。


 深夜の書斎での話だ。


 山に行く約束は明後日に延期になっていた。「その前に一つ整えたいことがある」とカイが言い、「何を」と聞いたら「帰ってきてから言います」と言われた。「帰ってくる」というのはどこへ帰ってくるのか聞こうとしたが、言い方に迷って止まった。


 深夜まで書類を整理した。宮廷記録室が請求した書類の照合が始まる前に、全部の目録を完成させておきたかった。カイが横に座って整理を手伝った。「どこかで聞いたような字ですね」「全部私が書きました」「分かっています」「なぜ」「……長い話に」「なります、でしょう」。


 その夜中に、書類から顔を上げると、カイの横顔が見えた。書類を見ていた。でも「書類を見ている顔」ではなかった。書類の向こうの何かを見ていた。「……何か」「いいえ」。彼は一拍置いて「あなたの字が多い年があります」と言った。「その年は書く以外にすることがなかった」「そうではないと思います」――その声が低かった。


 それ以上聞かなかった。


 少ししてカイが「休んでください」と言って書類を整えて立ち上がった。出ていく前に一秒だけ立ち止まった。何も言わずに立ち止まって、それから歩いた。出ていった後、書類の山が少し整えられていた。


 その一秒が、書類の5年分より重かった――と思ったのは、翌朝になってからだ。朝、宮廷記録室から「書類照合を開始します」という通知が届いた。「怖いですか」とカイが聞いた。「……余計ではありません」と答えた。その言い方が自分でも今までと違う気がした。「余計ではありません、の意味が今日は違います」「……そうですか」「どう違いますか」「……長い話に――」「なりません」。カイが少し笑った。


 その笑い方も、書類が積み上がった分だけ、少し変わっていた気がした。



 通知書を机に広げながら、カイが「記録委員会が提出目録の確認を始めます。まず照合するのは」と言いかけた。


「乾燥室の温度記録と、備考欄の筆跡です」


「……先に言わないでください」


「なぜ」


「知っていると言いたかった」


 カイが一拍止まった。「……知っていますか」「5年間書きました。どの欄に何を書いたか、書いた手が覚えています」。


 左手を見た。薬草の染みが、今日も同じ場所にある。5年間書き続けた手だ。この手が書いたものが、今日から照合の対象になる。記録委員会が読む。読まれれば、ある。あれば、私が書いたということになる。


「照合が始まることが、余計でないということですか」


 カイが聞いた。


「少し違います」


「……どう違いますか」


「照合が始まることだけが余計でないのではなく――」一拍置いた。「始まることを、怖いと思わない自分が余計でない、ということです」。


 カイが止まった。指先が通知書の端に触れた。何かを確かめるような触れ方だった。


「……分かりました」


「なぜ分かったのですか」


「長い話に」


「なりません」


「……少し、なります」


 その声がかすかに柔らかかった。今まで何度も聞いてきた「長い話になります」の中で、今日の声だけが違う温度をしていた。



 ベルタが書斎に飛び込んできたのは、昼前のことだった。息が少し切れていた。


「照合が始まったって本当ですか」


「本当です」


「大丈夫なんですか」


「大丈夫です」


「怖くないんですか」


「……少し怖いです」


「それが正直な話じゃないですか!」


「でも余計ではありません」


「なんの話ですか!」


 カイが「大事にしているものがあるということです」と言った。「……なぜカイ様が答えるんですか」「すみません、つい」「余計ではありませんとも言いますよね」「……言いません」「信用できません」。


 ベルタが前掛けの端を握った。声量が一段落ちた。それはベルタが少し怖いときの声量だった。


「……照合の結果って、いつ出るんですか」


「審議の方向が出るまで、1か月ほどです」


「1か月も」


「急ぎの審議ではないということです」とカイが言った。「慌てていない方が、丁寧に証拠を揃えられます」「……カイ様が言うなら信じます」「なぜそちらを」「だって嘘をつかないじゃないですか」。


 カイが一拍置いた。「……ありがとうございます」「どういたしまして!」


 ベルタが出ていった。廊下でまだ何か言いながら遠ざかっていく声がした。



 書斎に二人になった。カイが書類を束ごとに分け始めた。照合に出す順番を整えている。昨夜と同じ指先の動きだった。書類の扱い方が、最初からこの仕事を知っていた人間の動きだった。


 帳面を開いた。今朝の記録がまだない。昨夜、書くつもりで手が止まったままだった。


 止まったのは、カイが「休んでください」と言って立ち上がり、出ていく前に一秒だけ立ち止まったからだ。何も言わなかった。何を言おうとしたかも分からない。何も言わずに歩いた。出ていった後、書類の山が少し整えられていた。


 その一秒が、帳面の手を止めた。


「……帳面が止まっています」


 カイが声をかけてきた。顔を上げた。灰青の瞳が帳面を見て、次に私を見た。


「少し考えていました」


「何を」


「昨夜の一秒のことです」


 カイが動かなかった。書類に置いていた指先だけが、かすかに止まった。「……何の一秒ですか」「出ていく前に立ち止まった、あの一秒です」「……」「何も言わなかった」「……はい」「でも書類が少し整えられていました」。


 カイの耳が、かすかに赤かった。昨夜も赤かったのかもしれない。暗い書斎では見えなかっただけで、ずっと赤かったのかもしれない。


「……あの一秒は」と言いかけて、止まった。


「長い話に、なりますか」


 間があった。


「――なります」


 今度はカイが先に言った。「なります」と言われた方が、何も言われないより少し苦しかった。何も言わない沈黙と、「なります」という沈黙は、同じ静けさで違う重さをしている。今日、初めてその違いに気づいた。



 昼過ぎ、宮廷記録室から追加の請求書が届いた。乾燥室温度記録の実筆確認――照合官が辺境に出向くかわりに、書類の移送を求めていた。


「移送は」


「できません。原本を動かすより、こちらへ来てもらいます」とカイが言った。「いつ」「二週間後です」。


 二週間後という言葉が机の上に落ちた。明後日の山の前に、照合が一段重くなった。でも重さは脅威ではなかった。


「照合が来るということは」と言いかけた。


「ミラベル」


 名前だけ呼ばれた。書類から顔を上げていた。名前だけで、続きが届いた気がした。


「……分かっています」とカイが言った。「曖昧なものは照合されません。照合が来るのは、確かめる価値があるから記録委員会が動いた。そういうことです」「つまり」「この5年分は――最初から、照合に耐えられる記録です。あなたが書いたから」。


 声が少し低かった。


 帳面を閉じた。今日の記録は後で書く。今はまだ、「昨夜の一秒」に名前がついていない。名前がつかないまま帳面を開くと、何かが嘘になる気がした。


「明後日」とカイが言った。「はい」「一つだけ聞いていいですか」「どうぞ」「山に何があるか、先に聞きたいですか」「いいえ」「なぜ」「行けば分かると言ったからです」「……そうですか」。


 一拍置いてから、私から言った。


「私から一つ聞いていいですか」


「どうぞ」


「昨夜の一秒の話も、山にありますか」


 カイが止まった。書類に触れていた指先が、一度だけ動いてから止まった。


「……はい」


 その「はい」の重さが、昨夜の一秒と同じだった。

 明後日は、近い。

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