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「連載版」私の名前を、婚約者だけが知りませんでした   作者: 夢見叶
第8章 愛している——と言う前の、最も長い沈黙

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第40話 負けた、と言った彼女の顔が、思ったより清々しかった

 翌朝、アウラ嬢が来た。

 昨夜の夫人の言葉が、「ミラベル殿」という呼称と一緒に廊下に残っていた。「明日アウラが来るそうよ」——それだけ言って、夫人は振り向かなかった。振り向かなかったから、顔が見えなかった。だから夜中に何度か考えた。何を言われるか、どう返すか。5年間「左様でございますか」で通してきた。その顔は覚えている。でも庭へ向かう足が、少しだけ重かった。


 アウラ嬢は石段に腰を下ろしていた。辺境仕様の山靴に、土がついている。晴れているのに、靴先の土はまだ湿っていた。朝早くに山へ出ていたのかもしれない。


「一つだけ聞いてもいいですか」


 その声が、想像と違った。怒っていなかった。冷めてもいなかった。ただ聞きたいから聞く、という温度があった。


「……どうぞ」


「カイは——あなたと話した後、どんな顔をしていましたか」


 返す言葉を失った。責められると思っていた。辺境のことを何も知らないくせに、と言われると思っていた。でも来たのは、問いだった。


「分かりません。私から見える顔しか、知りませんので」


「そう」とアウラ嬢は言った。「では逆に教えます」


 立ち上がりもせず、靴先を草に向けたまま、続けた。


「カイは——あなたに会う前から、ここにいる誰とも違う目をしていた」


 胸の中で何かが音を立てた。聞いてはいけないものを聞いた気がした。聞きたかったものを聞いた気もした。


「3年前、カイが王都から戻ってきた。あの頃から目が違っていた。何かを探している目でした。辺境を見ていながら、辺境を見ていない。そういう目」


 アウラ嬢が靴先で草の端を踏んだ。地面に土が少し落ちた。辺境の土だった。庭の土と同じ色だった。


「私はここの生まれだから分かります。あの目は——見つけた後のものでした。見つけた、けれどまだ届いていない人間の目」


 声が続いた。


「あなたの目が、もう辺境の目をしていた」


 息を吸った。


「……負けた」


 短く言った。それだけだった。


「こういう負けは好きよ」


 付け足したその声は、どこか晴れていた。晴れた声で「負けた」と言える人を、初めて見た。


 立ち上がって、アウラ嬢は一度だけ振り返った。


「——よかった」


 それだけ言って、庭の奥へ歩いた。山靴の足取りが迷わなかった。石畳の目地を踏まず、草の縁を歩く。この土地の歩き方だった。



 庭に一人になった。足が動かなかった。

 「よかった」という一言が、一番重かった。

 勝ったとか、負かしたとか、そういう言葉が来ると思っていた。でも来たのは「よかった」だった。アウラ嬢が草の上に落とした土が、朝の光の中でただ乾いていくのを見ていた。辺境の土だった。ここの土と同じ色だった。

 カイの隣にいるかもしれなかった人が、辺境の目で私を測って、「よかった」と言った。

 その重さが、5年分の書類より先に落ちてきた。

 いつの間にか、手が前掛けの端を握っていた。握って、気づいた。


「……嫉妬していたのかもしれない」


 誰もいない庭に向かって声が出た。自分に言い聞かせるためではなかった。ただ出た。出てから気づいた。「目が違っていた」と言われたとき、胸の中で何かが疼いた。その疼いたものに、今ようやく名前がついた。5年間、感情に名前をつけるのが遅れてきた。この癖は、辺境に来てからも治っていない。



「お嬢様!」


 廊下に戻ると、ベルタが飛び込んできた。


「顔が4番目です!」


「……4番目って何ですか」


「いつもより少し困っている顔! 何かありましたか」


「……少し、嫉妬していたかもしれないと気づきました」


「今ごろ!」


「5年間分の感情が遅れてくる癖があります」


「早めていきましょう!」


 笑った。嫉妬していたことを声に出したら、少し軽くなった。胸の中で落ちた場所はまだ重い。でも声にしたら、形が変わった。「よかった」という言葉の重さと、「嫉妬していた」という感情の重さが、同じ場所に並んだ。どちらも、軽くしたくなかった。


「カイ様が薬草園にいます」とベルタが言った。「書類を持って来てます」


「……今日の薬草園は危険です」


「どんな意味ですか!」



 薬草園に行くと、カイが書類を整理していた。

 最初にカイの横顔が見えた。書類に目を落としていた。でも「書類を見ている顔」ではなかった。何か別のものを、書類の向こうに見ていた。それが何かはまだ言葉にならない。ただ、違う、は分かった。


「大丈夫でしたか」


「はい」


「……そうですか」


 その声が安堵の色をしていた。「はい」という一言で何かが溶けた声になった。カイの肩から、わずかに力が抜けるのが分かった。


 左手に薬草の茎を持ったまま、聞いた。


「アウラ嬢に——あなたが最初から目が違ったと言われました」


 カイが一拍黙った。書類から目を上げた。灰青の瞳が、一度こちらを見て、それから視線を少し落とした。


「そうですか」


「それだけですか」


「……長い話になります」


「今日は、少し、聞きたいですね」


 カイが書類を一度閉じた。閉じてから、また開いた。また閉じた。何かを考えるとき、カイの手は書類に触れ続ける。気づいたのは最近だ。


 薬草の匂いが風に揺れた。カイの耳が、かすかに赤かった。


「——明後日、山に行きましょう」


「なぜ」


「長い話の一部が、そこにあります」


 山に何があるのか聞こうとした。でもカイは答えなかった。「行けば分かります」と言って、書類を閉じた。


 その言い方が、初めてどこか確かに聞こえた。


 「長い話になります」という言葉は、今日は逃げではなかった。「なります」が「します」に変わる手前にある、と思った。その手前の重さが、今日は分かった。分かったから、少し苦しくて、少し嬉しかった。どちらが先かは、まだ分からなかった。


 左手の染みを、一度だけ見た。

 この手で届けた花を、あの人は3年間持っていた。その話の一部が、山にある。

 明後日、と思った。明後日は近い。

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