第39話 辺境では、認めた後の方が重い
招聘状と調査通知書を机の端に並べたまま夜が明けた。
10日が2方向から来ている。どちらにも私の名前がある。どちらも「ミラベル・ヴェストール」という名前を持っていて、どちらも同じ期限の中で動かなければならない。昨夜カイと確かめた事実が、朝になってもまだ胸の隅に残っていた。
薬草園に出た。朝露が葉に残っている時間だ。指先で葉の表面を確かめた。今日の水分量は昨日と変わらない。明後日までに乾燥室の調整が必要かもしれない。仕事のことを考えると、少しだけ落ち着く。5年前からずっとそうだった。感情が大きくなると仕事の細部が先に見えてくる。どちらも捨てなかったから、今日まで続いた。
「お嬢様——辺境伯夫人様が、書斎においでとのことで」
ベルタの声が来たとき、指先がほんの少し止まった。
◇
扉を開けると、夫人は窓の前に立っていた。私の帳面が、机の上で開かれていた。
「失礼いたしました。お待たせして」
「いいえ」と夫人は言った。「来たばかりです」
振り向いた夫人の視線が、私の顔ではなく、低い場所で止まった。
「手を見せてちょうだい」
一拍、意味が届かなかった。
「……手でございますか」
「書く手を」
左手を差し出した。薬草の染みがある。5年前から変わらない場所に、変わらない形で残っている染みだ。夫人が一歩近づいた。手袋をした指先が、触れるか触れないかの距離で止まった。
「書類ではなく——これを見ていました」
声が静かだった。「左様でございますか」と答えようとして、止めた。その言葉が今日は正しくない気がした。何も言えなかった。
「帳面を読みました。昨日の水やりの記録がある。温度の変化もある。——疲れている日も、そうでない日も、同じ筆圧で書いている」
「……全部、私が書きました」
「分かっています」
夫人が私の手から視線を上げた。目が来た瞬間、喉の奥が少し詰まった。見られていた。帳面越しに、手の動き方ごと見られていた。
「なぜ分かるか、聞きますか」
「……はい」
「5年続けた人間の字は、持ちこたえ方が違います。誰に言われたわけでもなく書き続けた人間の字は——折れ方が出ない」
「折れ方が出ない」という言葉が、喉の詰まりを一段押した。折れなかった。折れかけたことも、誰にも気づかれずにまた立て直したことも、ひとりで帳面に書き続けた5年分が、手の動き方に残っている。この人はそれを、帳面の筆圧から読んでいた。
◇
夫人が椅子に腰を下ろした。手袋の指先を一本だけ外した。何かを言いかけて、少し止まった。
「茶を——と言おうとしたのですが」
「先ほど準備しました」
夫人の目が、一瞬だけ動いた。
「……先ほど、というのは」
「はい。来客の前に整えておく癖があります。誰に頼まれたわけでもなく」
夫人が黙った。試している顔ではなかった。何かを確かめた後の顔だった。
ベルタが茶を持って来た。扉を開けた瞬間に空気を読んだのか、いつもより声を閉じていた。茶を置いて、静かに出た。
「礼儀正しい子ですね」と夫人が言った。
「ベルタは空気を読めます。声量の調整だけが甘い」
夫人が、声を出さない笑い方をした。眉の角度が少し下がっただけだった。でも確かに笑っていた。それが意外で、こちらの緊張が一段ほぐれた。ほぐれた瞬間、逆に怖くなった。ほぐれていい場面かどうか、まだ判断できていなかった。
◇
茶を一口飲んで、夫人が懐から記録帳を取り出した。黒い表紙に、辺境伯家の紋章が入っている。
「これは」
「家の記録帳です。この土地に関わる者を書き留める帳面。管理者、責任者、後継者。代々そこに名前が残ります」
夫人がペンを取り出した。
「書きます」
説明も確認も挟まなかった。ただ、書いた。
ペン先が紙に触れる音がした。書かれていく。見ていた。手が動く間の静寂が、昨夜届いた調査通知の重さとは別の温度を持っていた。あれは制度が動いた音だった。これは、一人の人間が決めた音だ。紙の上に、字になって、残る。
「……ミラベル殿」
初めて呼ばれた。
この家に来てから、夫人はいつも「あなた」か「そちら」だった。名前が来たのは、これが初めてだった。
「この家に来てよかった」
声が出なかった。出そうとした。でも出る前に喉が塞がった。夫人は続きを待たなかった。記録帳を閉じて、立ち上がった。手袋を指先から戻した。それだけだった。それだけが、今まで誰かに言われた何よりも重かった。
5年間、名前を間違えられた。書類の差出人欄を見てもらえなかった。薬草茶の作り手を覚えてもらえなかった。その全部が、今日のこの一言の前の話になった。前の話になった、ということが、少し怖かった。受け取ってよかったのかどうか、まだ手の中で確かめきれていない。
「一つだけ言っておきます」
扉のところで夫人が振り返った。
「辺境では——認めた後の方が重いのよ。分かっていますね」
「分かっています」と言おうとした。でも「分かっています」が本当かどうか、まだ確かめられていなかった。だから「……はい」とだけ言った。
夫人が出ていった後、書斎の空気が変わった。茶の香りと、インクのわずかな匂いと、窓から入る辺境の朝の冷えが残った。
◇
ベルタが戻ってきた。顔が先に来た。
「お嬢様。……どんな顔をしているんですか」
「……分かりません」
「4番目です」
「何の」
「いつもより少し——泣きそうな顔です」
笑った。笑いながら、左手を一度だけ見た。染みがある。夫人が見た染みが、まだそこにある。記録帳に書かれた字は今は見えない。でも書かれたという事実は、インクが乾いた後も残る。刻まれたものは消えない。
「カイ様に話しましたか」
「……まだです」
「廊下で待ってますよ。ずっと」
「聞いていたのですか、あの方も」
「廊下に立っているだけです、とご本人は言うと思いますが——」
◇
書斎の扉を開けると、カイが廊下にいた。机の書類でも持ってくる用事があったかのような立ち方をしていたが、手には何もなかった。
「……聞いていましたか」
「一言だけ」と彼は言った。
「何を」
「——『ミラベル殿』と、呼ばれていましたね」
カイの声が、実務の声より低かった。低いのに、平静を装った声だった。感情が多いほど声が少なくなる。この人がそういう声になるのを、私は最近、少しずつ覚えてきた。
「……よかった」
それだけだった。「よかった」の一言が、廊下に静かに落ちた。続きが来なかった。来なかったことに、何かが積まれていた。
返す言葉を探した。「ありがとうございます」が正しいのか、「夫人はよい方ですね」が正しいのか、どちらも少し違う気がした。探している間に——廊下でベルタの足音が止まった。
「——お嬢様。門に、アウラ嬢がいらしています」
カイの顔が一段固くなった。灰青の目が、少しだけ動いた。私の指先も止まった。
「よかった」の余韻がまだ廊下にあった。その上に、別の空気が静かに乗ってきた。
——認めた後の方が重い、と夫人は言った。
その言葉の意味が、今この瞬間から始まるかもしれないと、私は思った。




