第48話 ミラベル・ヴェストールという名前で、発表した
発表台に立つ前に、一度だけ深く息を吸った。
王都の宮廷で5年間働いていた時、ここまで深く息を吸ったことはなかった。息を吸う隙間がなかったのかもしれない。辺境に来てから、薬草の匂いと一緒に吸う空気の深さを覚えた。今日の学会会場の空気は、薬草の匂いがしない。でも、同じくらい深く吸えた。
掲示板に「ヴェストール辺境伯夫人 ミラベル殿の発表」と書いてあった。
自分の名前だった。正しく、一文字も違わず。
「緊張しましたか」とカイが出発前に聞いた。「していません」と言おうとしたが、ベルタに「嘘ですよね」と先回りされた。「……少しだけ」「少しだけが妥当です」「なぜですか」「緊張しない人間には守るものがないからです」――以前も同じようなことを言われた気がする。今日はその言葉の意味が少し変わって届いた。
会場の前でベルタが「大丈夫ですよ!」と言い続けた。カイが「大丈夫です」と言った。「それはカイ様が大丈夫ということですか、お嬢様が大丈夫ということですか」「……どちらも」「どちらでもないですよね」。カイが少し赤い顔をした。ベルタが満足そうにした。私は「行ってきます」と言って会場へ向かった。
後ろで「――ミラベル」という声がした。速さがいつもの速さだった。「はい」「名前が、よく聞こえます」「当然です」
発表台に立った。
「辺境薬草園管理者、ミラベル・ヴェストールと申します」
自分の声だった。緊張していたはずなのに、声が出た瞬間から、不思議なほど静かだった。宮廷で5年間、名前を間違えられて働いていた時に感じていた「薄さ」が、今日は全くなかった。発表台の下に聴衆がいて、「ミラベル・ヴェストール」という名前が空気の中に出ていった。
5年前に貴賓棟に届けていた薬草束に、この名前を書いていた。誰も読まなかった。でも今日、この部屋の全員が聞いた。
それだけのことが、今日は十分すぎるくらいだった。
◇
発表は30分あまりかかった。
辺境の薬草環境について、日照条件と土壌の性質から話し始めた。王都の標準薬草学ではほとんど扱われない群生種が辺境には複数あること。民間療法に長年埋もれてきた利用法があること。今年の薬草園改修で品質と収量を同時に上げることができた経緯を、配合の変化を数字で並べながら説明した。
最初、会場は少し騒がしかった。資料を回し、隣の人に何かを囁く声があった。それが少しずつ止まった。代わりに、発表台の方を向く顔の数が増えた。人が静まる時の音、というものがある。宮廷では5年間、その音を逆向きに聞き続けた――私が部屋に入ると、誰かが帰っていく音。今日は違う方向だった。
発表が終わった後、一人の書記が歩み出た。インク跡のある指先で、帳面を持っていた。
「先生、辺境の品種について、報告書を所望いたします。学会誌への提出とは別に、当委員会の記録用として」
「先生」という呼ばれ方をしたのは、今日が初めてだった。
5年間、薬草の報告書を書き続けた。差出人欄に名前を書いた。誰も読まなかった。今日初めて、「報告書を出してほしい」という言葉が来た。同じ染みの手で書くものが、今日から別の場所へ届く。
「喜んで」という言葉が、準備より先に出た。
◇
廊下に出ると、ベルタが走ってきた。
「ミラベル様!」
飛びついてきた。前掛けで目を押さえた。泣いていた。ベルタは5年間で何度も泣いてくれたが、今日の泣き方には我慢した跡がなかった。最初から泣くつもりで来た人の泣き方だった。
「……ベルタ」
「聞こえましたよ! 部屋中に聞こえましたよ! ミラベル様って!」
「声が大きい」
「大きくして当然です! 5年ですよ5年!」
笑ってしまった。廊下に声が出た。宮廷の回廊で笑い声を出したことは5年間でほぼなかった。ここは宮廷ではない。笑っていい場所だった。
カイが廊下の端に立っていた。近づいた。何を言えばいいか分からなかった。「よかったですか」でも「どうでしたか」でもない気がした。
「……終わりました」
「聞こえました」とカイが言った。「よく聞こえました」
「何が」
「名前が」
声が低かった。低い、というより、こもっていた。こもった声で「名前が聞こえました」と言う。会場のどこにいたかは見えなかった。でもその声には、ずっと聞いていた人間の重さがあった。朝に「名前が、よく聞こえます」と言った声と、今の「聞こえました」が、同じ日の両端にある。
「私も聞こえました」と言った。「自分の声で言ったのに、少し遠くに届いた気がして」
「それはなぜですか」
「……初めて、こんなに遠くまで届いた気がしたので」
カイが一拍だけ黙った。「そうですか」と言った。それだけで、今日一番重い言葉になった。
◇
会場の出口に向かう前に、ベルタに声をかけた。
「ベルタ」
「はい! なんでも言ってください!」
「……5年間、一緒にいてくれて。ありがとう」
ベルタが止まった。「5年ですよ5年!」と言おうとして、止まった。口が開いたまま何も出ない。前掛けを両手で握った。
「……あんまり急に言わないでください」
「すみません」
「謝らないでください。謝ったら泣きます」
「すでに泣いています」
「……もっと泣きます!」
ベルタが泣きながら笑った。私も笑った。笑いながら、左手の染みを一度だけ見た。5年間、薬草の色が抜けなかった手だ。今日もこの手が発表資料を持っていた。差出人欄ではなく、表紙に名前があった。今日、「先生」と呼ばれた手だった。
◇
帰路の馬車の中で、カイが書類を1枚取り出した。
「確認していただきたいものがあります」
「委員会の出頭通知ですか」
「はい。それから、証人欄を」
書類を受け取った。出頭通知の下段に証人欄があった。
「証人:エルンスト・リーデル(随行済み)」
指先が止まった。
「……爺やは、もう来ているのですか」
「昨日、王都に入ったと連絡がありました。今夜は市内の宿に泊まっています」
「いつから」
「申請の段階から証人をお願いしておりました。先月、承諾をいただきました」
先月。発表の準備をしていた時期だ。今日まで知らなかったのは、私だけだった。
「……なぜ今日まで言ってくださらなかったのですか」
「今日、お伝えするつもりでした」とカイが言った。「今日のことが終わってから受け取っていただくのが、一番いいと思いましたので」
窓の外に山の稜線が流れていく。暗くなり始めた空の下に、リュゼリカの山がある。今日、学会会場の全員に「ミラベル・ヴェストール」という名前を届かせた。明後日、委員会室に5年分の書類が並ぶ。爺やが「5年間ずっと」という言葉を持って、もうそこへ向かっている。
「――ミラベル」
カイが呼んだ。速さがいつもの速さだった。
「はい」
「明後日、会場で爺やに声をかけてください。あなたには言える言葉が、きっとあると思いますので」
馬車が揺れた。暗くなる窓の向こうに山の影だけが残った。今日聞いた「名前が、よく聞こえます」という言葉と、「エルンスト・リーデル(随行済み)」という文字が、同じ1日の中にある。
爺やが、もう来ている。5年間、誰にも頼まれたわけでもなく、青い花の前でずっと見ていた人が、今度は証言台に立とうとしている。




