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「連載版」私の名前を、婚約者だけが知りませんでした   作者: 夢見叶
第7章 殿下が辺境の門を叩いた。——もう遅い

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第36話 返すものは、もう何もありません

 謁見の間で、正式に名乗った。


「ヴェストール辺境伯夫人、ミラベルです。ようこそ」


 笑顔だった。自分でも分かるくらい、笑顔だった。昔も同じ言葉を、同じ人に向かって言ったことがある。「ミラベルです、殿下」――あのときは、証明しようとして言った。今日は違った。ここにいるから、言った。


 アレクシス殿下が一拍だけ返せなかった。


 カイが「妻のミラベルです」と添えた。普通の、事実を述べる声だった。でもその「妻の」という言葉が、謁見の間の空気を変えた。変えた、というより――正確にした。


 謁見は形式通りに進んだ。カイが一時退席した後、殿下と二人になる場面があった。「戻ってきてはくれないか、というのは――昨日で答えが分かった」と殿下が言った。「はい」と私は答えた。


「……すまなかった。5年間」


 殿下の手に、万年筆がなかった。書類を持ってきていたはずなのに、今日は何も書かなかった。謁見の間に入ってからずっと、その手は空のままだった。書けなかったのかもしれない。父の万年筆がキャップを外されなかった日のことを、一瞬だけ思い出した。書こうとして、書けなかった手が、同じ形をしていた。


 その謝罪を受け取るかどうか、少し考えた。一秒か二秒だけ。


「殿下の謝罪は、受け取ります。でも――返すものは、もう何もありません」


 怒っていなかった。悲しくもなかった。それが一番の答えだと思った。


 殿下が頷いた。「……エルンストを、連れてきてよかった」と小声で言った。



 カイが戻った後、随行文官が書類を3枚広げた。功績帰属確認の正式調査申請書だった。


「ご署名いただけますか」


 随行文官の言葉は、アレクシス殿下に向けられていた。殿下が書類を手に取った。今度は万年筆を出した。謁見の間でずっと空だった手が、ようやく何かを持った。


 キャップを外す小さな音がした。私の左手が、かすかに一度だけ握られた。誰にも見えないように。


 殿下が署名した。1枚、2枚、控えの3枚。筆跡が少し乱れていた。急いだわけではない。乱れる理由が別にある、と分かった。この手は、謝罪の言葉より先に、正しい行動を出そうとしている。それは誠意かもしれなかった。遅れた誠意でも、誠意には違いない。


 カイが書類を受け取った。「ありがとうございます」と言った。実務の声だった。ただ、受け取った後に、書類を一度だけ正面で揃えた。その動作は普通の動作だったが、その一拍が何かを意味していた。私以外には気づかれなかったかもしれない。


「……ありがとうございました、殿下」と私は言った。


 殿下が少し目を上げた。「……こちらこそ」と言いかけて、続けなかった。続ける言葉が見つからなかったのかもしれない。何かが、静かに終わった。終わりが、始まりと同じ重さを持つことがある、と思った。



 謁見が終わった後、庭に出た。カイが「お疲れ様でした」と言った。「……笑顔でしたね」と言った。「見ていましたか」「ずっと」。


 ずっと、という言葉が、庭の薬草の匂いの中に落ちた。


「――あなたは今日、ずっと見ていたのですか」


「……余計ではありません」


 カイの耳が赤かった。私の手が、少しだけ落ち着きをなくして、自分の染みを見た。この手が、ずっと見られていたらしい。それが嬉しいのか、困るのか、まだ名前がつかなかった。


 ベルタが「お二人、ずいぶん庭に長くいますね」と声をかけてきたとき、少し助かった気がした。少しだけ。


「カイ様。さっきの書類の説明、お嬢様にしないといいんですか」


「……後で話します」


「いつ後ですか」


「今夜、必ず」


「廊下の角から聞いていましたが」と私は言った。


 ベルタが一瞬固まった。「……角からちょっとだけ」


「どれくらいのちょっとですか」


「殿下のご署名のあたりから」


 カイが小さく息を吐いた。耳はまだ赤かった。庭の夕暮れが薬草の畝を長く照らしていた。



 夕食の後、書斎にカイが来た。


「功績帰属調査について説明します」と言った。「殿下の署名が入ったことで、宮廷記録室の動きが公式になります。調査が始まれば、こちらからも書類を提出します。筆跡の照合、配合記録、エルンスト爺やの証言、それぞれが証拠として扱われます」


「……爺やは、明日お発ちですか」


「明朝の予定です」


 明朝。帰る前に話せるか、と考えた。聞きたいことがある。言葉になっていない何かが、まだ胸のあたりに残っていた。


「一言伝えれば、今夜少しの時間は取れます」とカイが言った。聞く前に、先に答えが来た。この人は、聞かれる前に気づく。


「……ありがとうございます」


 カイが書類を机の端に置いて、続けた。「それから」と言って、一拍だけ止まった。「明日以降、調査書類が届き始めます。それ以外にも、別の方向から書類が来る可能性があります。届いてから話します」


「別の方向から」


「……急ぎません」


 急ぎません、が、何か別の予告のように聞こえた。カイはそれ以上言わなかった。「なんですか」と聞こうとしたとき、カイが先に立った。


「今夜の時間を作ってきます」


 書斎の扉が静かに閉まった。


 机の上に、署名済みの申請書の写しが残された。アレクシス殿下の、少しだけ乱れた筆跡がある。この書類が動けば、私の名前が入る場所ができる。私の名前を、私以外の手が書いた書類が、次の戦場の起点になる。


 写しを一度手に取った。紙の重さは普通の重さだった。でも置くまでの間、普通ではない何かが手の中にあった。


 窓の外で夜の風が薬草を揺らした。爺やは明朝ここを発つ。発つ前に、5年間を知っている人に、まだ聞いていないことがある。


 その問いが何かは、今夜までに分かるかもしれなかった。

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