第37話 辺境薬草園管理者、ミラベル・ヴェストール殿
エルンスト爺やが帰る前に、証言の下書きを置いていった。
「お読みいただければ」と言って、書斎の机の上に置いた。薄い紙が三枚。爺やの字は昔から細かく丁寧で、急いで書いた様子がない。5年分の事実を、事実として並べてある。花の名前。届けた先の人。毎日の配合。報告書の提出の様子。
最後の一行に、こう書いてあった。
「殿下は辺境の薬草園をご覧になって何を思われたか、わたしには分かりません」
私も、分からなかった。
分からないことを「知りたい」という気持ちが起きないことが、少し不思議だった。以前なら「分からない」はどこか不安だった。でも今日の「分からない」は、ただ事実として静かだった。
どちらでもよくなっていた。
それが「前にいる」ということなのだと、薬草園の朝露に指先が触れた瞬間に思った。
◇
書斎に戻ると、カイが入ってきた。
「読みましたか」
「はい。——爺やは丁寧な方ですね」
「そうですね」
「それだけですか?」
「……長い話になります」
「今回もですか」
「今回もです」
「何回言うのですか」
「必要な回数だけ言います」
廊下でベルタが「また始まった」と言う声がした。遠慮がない声だった。
笑いそうになったが、笑うと泣きそうな気がして、笑わなかった。笑えなかったのではない。今日は笑わない方がいいと、自分で決めた。それだけのことだった。
カイが机の端に目を向けた。三枚の薄い紙はまだそこにある。「功績調査の証拠として、これを使います。爺やも了承しています。記録委員会での正式証言には調整が必要ですが——この下書きは骨格として提出できます」
「骨格、というのは」
復唱しながら、言葉の重さを量った。骨格、つまりこの三枚の紙が次の戦いの芯になる。爺やの細かい字が、宮廷の記録室に届く。「毎日花を添えていた」という事実が、公式の書面に刻まれる。
うまくできている、と思いかけて、止めた。今日はそういう種類の言葉を使う日ではない気がした。
「……分かりました」
カイが一拍置いた。「ほかに聞きたいことはありますか」
「——一つだけ。爺やは、いつ書いたのでしょう」
カイが少し黙った。「おそらく——昨夜です。発つ前に」
昨夜。昨夜の私は書斎にいた。カイと書類の話をして、廊下を歩いて、燭台の光が低い辺境の夜を歩いた。その同じ夜に、爺やは三枚の紙に5年分の事実を書いていた。急いで書いた様子がないと思ったのは、字が整いすぎていたからだ。急いでいなかったのではなく、ずっと用意していたものを、ただ整えて書いただけだったのかもしれない。
喉の奥が少し詰まった。詰まったままにして、「ありがとうございます」と言った。
◇
温室で実務の確認をした後、一人で薬草園に出た。
左手の染みが少し痛んだ。アレクシス殿下が歩いた畝の前に立って、薬草の葉を一枚手に取った。「この仕事は、ずっと見られていたらしい」という言葉が、カイの声の形で残っていた。
昨日の謁見で、カイは「ずっと」と言った。「見ていましたか」と聞いたら「ずっと」と返ってきた。その「ずっと」がエルンスト爺やの「5年間」と同じ形をしていて、しかし重さが違った。爺やの「ずっと」は記録だった。カイの「ずっと」は何だったのか、まだ名前がつかなかった。名前のつかないものを胸の中に置いたまま、小鋏を構えた。
刃を葉に当てる。今日の収穫ではない。確かめるだけの動作だ。指先が、昨日の殿下の顔の前に立ったときよりずっと落ち着いていた。
殿下の後悔は、本物だった。遅かったが、本物だった。その後悔に対して、胸の中に動くものがなかったのは——怒っていないからではない。受け取る器が、すでに別の場所にあったからだ。
小鋏を帳面の隣に置いた。帳面には今朝の水やりの記録がある。辺境の土の性質、品種ごとの乾燥度合い、今月の気温の変化。誰に頼まれたわけでもない。ずっとそうしてきた。ずっと。
「お嬢様!」
ベルタが小走りで来た。息が整いきっていない。前掛けのポケットから紙を出しかけて、止まった。
「書類が届いています。薬草学会から」
薬草学会という言葉が出た瞬間、指先から葉を放した。落ちた葉が薬草の匂いをわずかに立てた。
◇
廊下に戻ると、カイがすでに来ていた。
「見ましたか」
「これから」
「急ぎません。ただ——」
「……期限がありますか」
「はい。10日」
「そうですか」
カイが少し間を置いた。「……受けますか」と聞かずに、「受けますか」と聞いた。
私はまだ封を切っていなかった。「はい」と答えようとして止まった。「受けます」という言葉が、封を切る前から出てきそうになっていた。その「出てきそう」を確認してから、封を切った。
薬草の品種改良に関する論文発表の招待。辺境産の薬草が宮廷基準を超えているという、先月の分析記録を受けての招聘。簡潔な文面だった。読み終えて、最初に目が行った場所へ戻った。
辺境薬草園管理者 ミラベル・ヴェストール殿。
私の仕事が、学会まで届いていた。
カイが何も言わなかった。言わないことが、いつもの実務の沈黙と少し違った。私が顔を上げると、カイが一拍だけ目を逸らした。灰青の目が書類の端を見てから、私に戻った。
「……宛名は」
「私でした」
おかしなことを言ったと思った。見れば分かることを声に出した。でもカイは「おかしい」という顔をしなかった。「はい」と言っただけだった。
「そうですか」ではなく、「はい」だった。その違いに気づいたのは、廊下を歩いた後のことだった。返答するときの距離が、一段、近かった。
「返答は——封を切る前から、決まっていましたか」
唐突な問いだった。カイが少し止まった。
「……そうかもしれません」と言いかけて、私は言い直した。「決まっていました」
ベルタが廊下の角から声をかけてきた。「受けますか、お嬢様!」
「……検討します」
「もう決まってますよね、声で分かります!」
カイの口元が、かすかに動いた。笑ったのかどうか分からないくらいの動き方だった。私は招聘状を折り畳んで、帳面の隣に置いた。小鋏の隣だ。小鋏は今朝から動いた場所を記憶している。帳面は毎日の記録を持っている。招聘状は、その仕事の行き着いた先を持っている。
3つが並んで、机の上に置いてある。
「10日で、返答します」
カイが「はい」と言った。今度もやはり「そうですか」ではなかった。
廊下の角でベルタが「やった!」と言った。声が大きすぎた。薬草が驚くかもしれなかった。




