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「連載版」私の名前を、婚約者だけが知りませんでした   作者: 夢見叶
第7章 殿下が辺境の門を叩いた。——もう遅い

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第35話 青い花は、わたしの好みでして

 エルンスト爺やが門を通ったとき、手に青い花を1輪持っていた。


 御者がそう教えてくれた。辺境の花ではない、王都の宮廷庭園から切ってきたものだと。門番がそれを見て「贈り物ですか」と聞いたら、「好みでして」と答えたらしい。


 私はその話を聞いて、少しだけ笑った。


 出迎えの場に出ると、アレクシス殿下が馬から降りた。随行員の中の1人として、エルンスト爺やが降りてくるのが見えた。「ようこそ。辺境においでくださいました」と言ったとき、自分の声が思ったより落ち着いていることに気がついた。


 アレクシス殿下が一拍止まった。


 その一拍に何が入っていたのか、私にはまだ分からなかった。でも確認する必要もなかった。私は受け取る側として立っていた。それだけで、十分だった。


 エルンスト爺やが深く頭を下げた。「久しぶりですね、ミラベル嬢。いや――ヴェストール夫人」


 青い花を差し出した。


 私の喉が1度動いた。「……見ていてくださっていたのですね」と言おうとして、小声になった。


「青い花は、わたしの好みでして」と爺やは言った。ベルタが後ろで「そんな好みで辺境まで来るんですか」と言いかけて、私が手で止めた。


 薬草園の案内が始まった。アレクシス殿下が畝の前に立った。「宮廷のものとは――違うな」と言った。「はい。辺境の土に合うよう、品種を選び直しました」「……誰が」「私です、殿下」。


 殿下が足を止めた。


 エルンスト爺やが、1歩前に出た。


「殿下」と呼んだ。低く、穏やかな、5年間変わっていない声だった。「殿下がご覧にならなかったものを――わたしはずっと見ておりました」


 庭に風が吹いた。薬草の匂いが動いた。


「5年間、毎日花を添えていたのは――ミラベル・ヘルダ嬢です。今はヴェストール夫人でいらっしゃいますが」


 アレクシス殿下が下を向いた。


 私は何も言わなかった。言う必要がなかった。ただ青い花を手の中に持ったまま、爺やの声が庭に落ちていくのを聞いていた。


「書類についても――証言できます」と爺やは最後に言った。「お役に立てるならば」


 手の中の青い花を、少し強く握った。指の先が白くなるくらい。誰にも見えないように。



 アレクシス殿下が沈黙したまま薬草園を出た後、しばらく誰も何も言わなかった。


 随行員が殿下の後を追う足音が砂利の上を遠ざかる。ベルタが隣で息をのんでいた。いつもならもう3回は何か言っているはずのベルタが、黙っていた。


 爺やが、静かに私の隣に立った。


「ミラベル様が辺境においでになると聞いたとき」と爺やは言った。「安心いたしました」


 安心、という言葉が、予想していた言葉ではなかった。心配ではなく、安心。


「……爺やは、ご存知だったのですね。ずっと」


「はい」


 それだけだった。長い説明はなかった。爺やはいつもそういう人だった。


 私の左手にある青い花が、少し震えていた。手ではなく、花がそうしているように見えた。「受け取っていいのですか」という言葉が出そうになって、出なかった。受け取ってよいかどうかを確かめる必要がないほど、もう受け取っていた。


 爺やが深く1礼して、随行の列へ戻っていく背中を見送った。


 ベルタが小声で言った。「……5年間、ちゃんと見ていた人がいたんですね、お嬢様」


 答えなかった。答えると、何かが崩れる気がした。崩れてもいいものが、でも今は崩れると困る場所にあった。


 左手の染みが、少しだけ痛んだ。



 夕刻、温室で明日の謁見の確認をしていると、カイが入ってきた。


「……爺やの証言について、書類の照合に使えます。筆跡も含めて」


「はい」と私は言った。「分かっています」


 実務の話だった。いつもの実務の話だった。でも私が「分かっています」と言ったとき、カイが少し間を置いた。


「……大丈夫でしたか」


 カイが聞いたのは、書類のことではなかった。


 大丈夫、という言葉の返し方を、少し探した。大丈夫というには少し手が震えていたし、大丈夫でないというには今日の全部が十分すぎるほど良かった。


「……見ていた人が、いたのだと思いました」


 カイが黙った。黙り方が、いつもの実務の沈黙と違った。


「明日の謁見は、辺境伯夫人として受けてください」とカイが言った。「あなたの足で立つ場所は、整えてあります」


 私の足で立つ、という言葉が、薬草の匂いの中に落ちた。


 青い花は、今も手の中にあった。温室の光の中でも、あの庭の色のままだった。


 明日、「ヴェストール辺境伯夫人、ミラベル」と正式に名乗る。かつて「ミラベルです、殿下」と証明しようとして言ったのと、同じ言葉を、同じ人に向かって言う。


 その言葉が今日と明日で別の重さを持つことを、私はまだ完全には信じていなかった。信じなくとも、明日になれば分かる。


「……長い話に、なりそうですか」


「なりません」


 カイが短く言った。「それだけは」

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