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「完結済」私の名前を、婚約者だけが知りませんでした   作者: 夢見叶
第7章 殿下が辺境の門を叩いた。——もう遅い

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第34話 姉に似た方も、結局は殿下を選ばなかったのか

「ローエンシュタイン令嬢が、殿下との縁談をお断りになったとか」


 ベルタがそれを持ち込んできたのは、謁見の準備をしている朝だった。王都から早馬より速く届く侍女ルートの噂というものが、辺境にも存在することを私は最近知った。「どこで」と聞くと「玄関で御者の方が」と言った。


 殿下の隣が、また空いた。


 その事実を最初に「殿下が可哀想だ」という方向で受け取りかけて、やめた。正確ではないから。正確に言えば——殿下は、また「見なかった」から選ばれなかったのかもしれない。でも、それは私には分からない。分からないことについて感情を持つのは、エネルギーの使い方が間違っている気がした。


 代わりに思ったのは、エルンスト爺やのことだった。


 なぜ随行員に加わったのか。宮廷の老侍従が辺境まで来る理由として、「殿下の命」だけでは説明がつかない気がしていた。あの人は5年間、毎日何かを見ていた。その人が、今来る。


 午後、カイが温室で「エルンストは証言できます」と言った。


「書類の件だけでなく、日常の証言者として。5年間を知っている人が、証言台に立てる可能性があります」


 証言台、という言葉が、頭の中で少し時間をかけた。エルンスト爺やが証言台に立つ。「5年間ずっと」と、今度は公的な場で言う。その言葉の重さを想像して、喉の奥が少し痛んだ。怒りではない。「ずっと見ていた人が、いた」という事実への感謝が、場違いなくらい急に来た。


「殿下は——眠れているのでしょうか」と、薬草の束を持ち直しながら言った。


 カイが少しだけ間を置いた。


「……エルンストから、眠れていないと聞きました」


 思った通りだった。思った通りだったのに、声に出して確かめなければならない事実というものが、世の中にはある。安眠茶を作っていたのは私だった。宮廷を出てから5年、あの人の眠れない夜を数える立場にはもういない。ただ、それを作った手が今も染みを持ったまま薬草を持っているという事実は、消えない。


 感傷ではない。それだけのことだ、と束を棚に戻した。



 書斎に戻ったのは夕方になってからだった。カイが書類を3枚、机の上に広げていた。


「功績帰属調査の枠組みについて、説明してもいいですか」


「聞きます」


 カイが書類の一番上を指した。「アレクシス殿下が申請すれば、公式の調査が動きます。その調査の枠組みを使えば——筆跡の照合、配合記録の著作者確認、エルンストの証言を、正式な記録として残すことができます」


「殿下が申請することで、私に有利な記録が残る、ということですか」


「はい」


 うまくできている、と思った。うまくできている、と声に出しかけて、何か違う気がして止めた。「うまい」という言葉は、計算のある話にしか使えない。カイのこれは計算でもあるが、それだけではない気がする。それが何なのかを今夜確かめるつもりは、まだなかった。


「……うまくできていますね」


 やっぱり言った。カイが一度視線を机に落とした。


「……余計ではありません」


 止まった。


 「余計ではありません」はこちらの言葉を受け取るときに使う言葉だ。「ありがとう」と言われたとき、「申し訳ない」と言ったとき、そういうときに返ってくる。でも今夜は、私が「うまくできていますね」という評価を言った後に出てきた。


「——それは、そういう使い方の言葉ですか」


 カイが一拍だけ黙った。灰青の目が机の書類から離れて、少しの間だけ宙に止まった。


「……そうかもしれません」


 そうかもしれない、は、「そうです」より正直な言葉だと思った。この人がたぶんという言葉を使うとき、「たぶん」の中にほぼ確実なものが入っている。「そうかもしれません」も同じ種類の言い方だ。


 言葉の重さを確認しようとして、やめた。今夜は確認しない夜だ、と決めた。


「アレクシス殿下は——来たことを、後悔しないでしょうか」


 聞いてから、少し奇妙な問いだと思った。来ることを受け入れたのは私で、断ることもできた。でも聞いた。


「……それは分かりません。でも」


 カイが続きを言わなかった。「でも」の後が来なかった。


 「でも」の後を待ちながら、待っても来ないことが分かって、私は先に立ち上がった。「おやすみなさい」と言った。カイが小さく頷いた。その頷き方が、「でも」の続きを別の形で言ったように見えた。気のせいかもしれなかった。



 夜の廊下を歩いた。


 燭台の明かりが低い。辺境の夜は、石の床が冷える。足音が小さく跳ねて戻ってくる。その音を聞きながら、ローエンシュタイン令嬢のことをもう一度だけ考えた。


 姉に似た方、と宮廷で言われていたらしい。ベルタが別の日に話した噂の端に、そういう言葉があった。殿下が選ぼうとした理由の一つに、そういう類似があったなら——それでも選ばなかった、ということだ。


 似ていても、選ばなかった。


 なぜかを考えて、考えながら「なぜかは私には分からない」という結論にたどり着いた。分からないが、分かることがひとつある。殿下はまた、「見なかった」のかもしれない。今度は何を。何を見なかったのかも、私には分からない。


 でも。


 廊下の終わりで、外の音がした。風が草を揺らす低い音だ。辺境の夜はいつもこの音がある。遠くで乾燥棚の紐が鳴いている。


 私が選んだのは、ここです。


 声には出さなかった。声にしなくていい言葉だった。5年前も、1年前も、この言葉を自分に言い聞かせるために声が必要だった。今夜は必要なかった。言い聞かせるのではなく、確認しているだけだから。確認する言葉に、大きな声はいらない。


 廊下を戻った。薬草の帳面が机に置いてあった。今夜はそれを開かなかった。開かなくていい夜だった。



 翌朝、門番から短い書状が届いた。


 カイが廊下で渡してきた。「エルンスト爺やが辺境の門を通りました」という内容だった。読んで、頷いて、書状を折り畳んだ。


「……ありがとうございます」


「何か、気になることがありましたか」


 聞こうとして、聞かなかった。気になることは一つある。でも確認は、会ってからでいい。


「——御者が、一言だけ」とカイが続けた。「……エルンスト殿が、手に花を持っていたと」


「花を」


「辺境の花ではなかったそうです。王都の、宮廷庭園から切ったものだろう、と」


 庭園の花。


 宮廷の庭に咲く、青い花の色を思い出した。殿下が誰のためにあるか知らないまま、5年間あの庭に咲いていた花。


 その花を、爺やが持ってくる。


 手の中の書状を、もう少しだけ強く握った。それだけのことが、今朝の廊下を少し別の場所に変えた。

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