第32話 今は、それだけで——書状の期限は20日だった
神殿の石畳は、王都のそれより少し荒かった。
辺境の神殿は大きくない。飾りも少ない。でも記録室の棚には、この土地で生まれた人、逝った人、結ばれた人の名前が全部入っている。紙の上の名前は、何百年経っても消えない。
カイが申請書類を広げた。
「署名をお願いします」と言った。
私は書類を見た。婚姻申請の甲欄。「申請者(甲)ミラベル・ヘルダ」とすでに印字されていた。自分の名前だった。正しく、一文字も違わず。
羽根ペンを取った。インクを付けた。
「ミラベル・ヘルダ」と書いた。
自分で書いた自分の名前を、5年ぶりに公的な書類で見た。薬草の発注書にはずっと書いてきた。でも、家名と個人名が並んだこの形を、婚姻申請という文脈で見るのは初めてだった。
ペンを置く前に、一度だけ指先でなぞった。誰にも見せない、ほんの1秒。
「一つだけ、確認させてください」
カイが言った。
私は顔を上げた。申請書はもう書き終えている。確認するなら署名の前にするものだと思ったが、この人は順番が逆になることがある。それを今は変に思わない。
「この申請は、あなた自身の意思ですか」
石畳の上で、風が止んだ。
問いの意味は分かった。婚姻が制度的に有利だから承諾したのか、それとも——という問いだ。どちらの答えを期待しているのかも、たぶん分かった。
「はい」と答えようとして、カイの目を見た。
灰青の目が、いつもより少し近かった。
「……それだけですか」
自分で聞いてしまった。
カイが一拍だけ遅れた。その一拍が、何かを教えてくれた。
「今は、それだけで十分です」
「今は」という言葉が、耳の中に残った。石畳の上の風が戻ってきた。
この「今は」は、「いつか」があるということだ。
そのいつかがいつなのかを考えながら、私は申請書を折り畳んだ。手が少しだけ震えていた。薬草を折るときの震えとは、別の種類だった。
◇
記録係が台帳を開いた。
鉄筆が走る音がした。短く、乾いた音だ。石畳の低いところへ響いて消えた。
「お名前を」と記録係が言った。
「ミラベル・ヘルダ」と私は言った。
自分で声に出した。台帳に入った。薬草の発注書に書くときとも、さっき申請書に書いたときとも、また違う感触だった。書く行為と声に出す行為では、同じ名前が違う場所へ入る。
台帳が閉じられた。棚へ戻される。この土地で結ばれてきた人たちの隣に、今日の名前が並んだ。
「受理いたしました」と記録係が言った。感情のない声だった。それでいい場所だった。感情の場所ではなく、記録の場所だから。
◇
神殿を出ると、空が広かった。草地の果てまで続いている。辺境の空は、遮るものがないぶん体に近い感じがする。
砂利道を歩いた。カイが半歩後ろにいた。
「今は、というのは」と私は言った。「どこまでのことですか」
カイが2歩分だけ黙った。
「……続きは、長い話になります」
「また」と言った。「長い話ばかりですね」
「いつも長い話しかないので」
私は笑いそうになって、止めた。止めながら、この人が「今は」と言ったとき、続きを持っていたことは分かった。「今は十分」というのは「足りていない部分がある」ということだから。それがどういう意味かを聞いたら、長い話になる。それでいいと思った。今日は今日分の話が、十分あった。
◇
屋敷に戻ると、ベルタが玄関前で待っていた。腕を組んで、夕方の光の中に立っていた。私の顔を見て、カイの顔を見て、また私の顔を見た。
「……思ったより早く終わりましたね」
「書類が整っていたので」とカイが言った。
「計画通りでしたか」とベルタが聞いた。私に向けているのかカイに向けているのか、ちょうど中間の角度で。
「半分は」とカイが答えた。
「残り半分は」と私は聞いた。
「あなたが、予定より鋭かったので」
「褒めているのですか」
「はい」
ベルタが「そうですか」と言った。それ以上何も言わなかった。何か言いたそうな顔で3秒だけ耐えて、「では夕餉を」ときびきびした足取りで戻っていった。背中に邪魔しないという意思が、少し過剰に込められていた。
笑いそうになった。カイの方を見ずに、私は中へ入った。
◇
夕餉の後、机の前に座った。
昨日から机の端に置いてあった書状を、今日初めて手に取った。先送りにしていたのではない。父が退いた翌日に来たものだ。今日、神殿へ行くことが先だった。順番が、それだけのことだった。
赤い封蝋を確かめた。王家の紋だった。差出人は分かっていた。
封を切った。
本文を読んだ。薬草研究の功績を認める。宮廷での顧問職を打診する。就任の意向があれば正式書状を送付する。返答は20日以内を期待する——。
20日。
今日、台帳に名前が入った。今日のことだ。この書状が届いたのは昨日で、返答の期日は20日以内。日付を見た。父の来訪と、この書状の到着が同じ日だった。偶然とは思えなかった。
考えていると、廊下から音がした。
「開けましたか」とカイが言った。扉の外から。
「はい」
しばらく間があった。
「入ってもいいですか」
「どうぞ」
カイが入ってきた。書状を少し遠くから見た。読もうとするのではなく、確かめるような目の向け方だった。
「20日、という期限が入っていますね」
「知っていたのですか」
「書状の形式から、そういった内容だろうとは考えていました」
「……全部、想定通りでしたか」
カイが一度だけ懐に触れかけた。手が止まった。
「そこまでは」と言った。「論理では、説明しづらいですね」
以前も同じ言葉を言われた。でも今日のそれは、神殿で言われた「今は十分です」と同じ温度だった。隠していない。でも全部は言わない。それがこの人の正直の形だ。
「断ります」と私は言った。
「はい」
「ただ——」
「ただ、あなたの名前で」
カイが私より先に言った。
止まった。カイの目を見た。灰青の目が、石畳の上より少し暗い夜の色をしていた。
私が言おうとした言葉を、この人は知っていた。知っていて、一緒に言おうとした。それが「今は」の続きなのかどうかは、まだ聞けなかった。
「20日」と私は言った。
「十分あります」とカイが答えた。
書状を折り畳んだ。今度は震えなかった。机の上に置いた。赤い封蝋が上を向いた。
窓の外で辺境の夜の音がした。風が草を揺らす、低い音だ。遠くで乾燥棚が揺れている気配がした。薬草はまだそこにある。台帳の記録は入った。書状はここにある。
明日から考える問題が、机の上にある。今日考え終えたことの隣に、まだ開きかけの扉がある。
その扉の向こうで、宮廷は「ミラベル・ヘルダ殿」という名前を待っている。
返答は——私の名前で、私の言葉で書く。




