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「連載版」私の名前を、婚約者だけが知りませんでした   作者: 夢見叶
第6章 婚姻を認める代わりに——父の条件は、呑めない

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第31話 条件書は通らず、招聘状は届いた

 父が黙った瞬間を、私は一生忘れないと思う。


 客間はいつもより明るかった。午前の光が窓から斜めに入り、父の万年筆が机に置かれたまま影を伸ばしていた。その万年筆は、今日もキャップが外されていなかった。昨日も、そうだった。2日間、この人は何も書かなかった。


「お父様が、宮廷側と動いておられたのですね」


 私は言った。昨夜、赤い封蝋の書状を見た後から、ずっと準備していた言葉だった。


 父は答えなかった。


 否定しなかった、という意味ではない。否定しようとして、できなかった。その差が、あの沈黙には入っていた。私には分かった。5年間、この人の「静かさ」の意味を判別してきたから。


 窓の外に、辺境の秋の木立が見えた。葉がまだ残っていた。父の外套は、まだ椅子にかかっていた。去ろうとしていない、のではなく、去り方を決めかねている人の時間の形だった。


「条件は、一時保留する」


 「一時」だ。「取り下げる」ではない。でも「一時」でも、今日は十分だった。


 父が外套を取った。書類を取った。万年筆は、テーブルに残した。


 意図的なのか無意識なのか、今日の段階では分からない。ただ残った。2日間、一度もキャップを外さなかった万年筆が、この部屋に残った。条件書に何かを追記しなかった。婚姻承認に署名しなかった。どちらもしなかった証明として、黒い軸が午前の光の中に置かれていた。父の条件書には余白があった。3項目だけ書いて、下半分は空白のままだった。今朝、その余白の意味が少し分かった気がした。最初から、通らないことを想定していた人間の、消せない隙間だった。


 扉が閉まる音がした。



 廊下に出ると、カイがいた。


 壁際に立って、腕を前に組んでいた。書類は持っていない。珍しかった。この人がいつも何かを手に持っているのは、手の置き場を最初から決めておくためだ、と今日初めて気づいた。手を置く場所がない日は、こういう立ち方をするらしい。


「……終わりましたね」と私は言った。


「一時、だと思います」とカイが答えた。「ただ——」


「宮廷書状のことですか」


「はい」


 私は少し笑った。「あなたは『ただ』か『長い話になります』のどちらかしか言わないのですね」


「……そうかもしれません」


 廊下の光が、今日は特に長かった。辺境の午前は、静かになる前に少しだけ空気が広がる。外の木立が、また風に揺れた。


「計画通りでしたか」


 聞いてから、少し意地悪な問い方だったと思った。でも聞いた。


「半分は」とカイが言った。「残り半分は——あなたが予定外に鋭かったので」


「褒めているのですか」


「はい」


 間を置かずに言われた。いつもの一拍がなかった。その速さが、私の返事を詰まらせた。


 カイが懐に手を当てようとして、途中で止まった。書類は今日持っていないから、触れるものがない。その手が宙で少し止まって、それからゆっくり下りた。


 何かを言おうとして、言わなかった。それが分かった。この人が言わないことは、言った言葉より重くなることがある。今日はそれを知ったまま、どちらも黙っていた。


「宮廷への返答は、どうしますか」


 カイが聞いた。私は少し考えてから言った。


「断ります。ただ、私の名前で」


 カイが頷いた。その頷き方が、今まで見た中で一番、何かに近かった。「余計ではありません」でもなく、「論理では」でもなく、ただ頷いた。それだけで今日の廊下が、少し違う場所になった。



 夜になってから、温室に入った。


 辺境の秋は乾いているが、温室の中は違う。薬草の蒸気と湿った土の匂いが混じって、今日の出来事から少しだけ遠い場所になる。棚を1本確認して、乾燥の進み方を手で触れながら歩いた。手が動いていると、気持ちが少し落ち着く。昔からそうだった。そうしなければ落ち着かなかったから、習慣にしただけだが。


「お嬢様」


 ベルタが棚の向こうから出てきた。薬草の束を両手に抱えたまま、私の顔を見た。


「お顔が赤いですよ」


「薬草の蒸気です」


「嘘」


「……蒸気です」


「2度言っても嘘は嘘です」


 私は棚の端を掴んで、返す言葉を探した。見つからなかったので、黙った。ベルタは追いかけてこなかった。それが今日のベルタの分量の、正しい取り方だった。


 蒸気のせいでは、たぶん、なかった。



 書斎に戻ると、机の上に封筒があった。


 赤い蝋が、昨夜のまま割られていなかった。カイが隣に立った。


「開けますか」


「開けます」


 蝋を割った。中の紙を広げた。


 宛名が目に入った。


 「ミラベル・ヘルダ殿」


 1文字も違わず、正しかった。差出人は、王都薬務院。日付は今月——父が来訪する、少し前だった。


 内容を読んだ。読んでから、もう1度読んだ。


 「辺境産薬草の功績に鑑み、薬草顧問として正式に招聘いたします」


 父が退いた。姉が証言した。私の名で書いた記録が、消えずに残った。


 その全部が、この紙の中で、招聘の根拠として使われていた。


 カイが書状を一緒に読んでいた。何も言わなかった。声の代わりに、長い沈黙があった。


「……王令は」とカイが言った。「個人の断りだけでは、止まりません」


「分かっています」


 分かっていた。分かっていても、口に出して確認しなければならないことが、世の中にはある。


 机の上に、書状が広げられたまま残った。「ミラベル・ヘルダ殿」という文字が、夜の灯りの中に静かにあった。


 今日、父に断れた。今日、カイの頷きを見た。今日、ベルタに顔を指摘された。


 今日の全部は、本物だった。


 その本物を、次は宮廷相手に守らなければならない。私の名前で。

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