第30話 「ミラベルの仕事です」——姉様が、3年かけてたどり着いた言葉
姉様が、私の字を知っていた。
それは当然のことかもしれない。同じ家で育ったのだから。でも「知っていた」のと「3年前から手元に置いていた」は、違う。
記録室の机の上に広げられた書類の束。発注書、報告書、備考欄の細かい注記。どれも差出人は「マリエル・ヘルダ」の名義だが、書いたのは私だと分かる。あの書き方の癖は、正式な教育で叩き込まれたものではなく、早朝5時に薬草の量を間違えないよう自分で決めたルールだ。
「これを」と私は言った。「いつから」
「宮廷を離れる前に持ち出したの。見てはいけないものかもしれないと思っていた。でも、捨てることもできなかった」
姉様の手が、書類の端に触れていた。白い手袋をしていない。素手の指先が、少し赤い。
「この書類の字は」とカイが言った。「ミラベル嬢のものと照合できます。証言の根拠になります」
部屋の空気が変わった。変わり方が、今まで経験したことのない種類だった。怒りでも安堵でもなく、「あった」という感覚だった。5年間のものが、紙の上に存在している。証明できる。消えていない。
姉様が私を見た。
「ミラベルの仕事です」と姉様が言った。「私のものと呼ぶことは——もうできません」
その言葉を言うまでに、どれほどの時間がかかったのだろう。声は穏やかだったが、穏やかでいるために使った力の分だけ、その場の空気が重かった。
私は何も言えなかった。返す言葉があったかもしれないが、今は必要なかった。
書類がある。字がある。姉様の声がある。
それだけで、今日は十分だった。
◇
書記が呼ばれた。辺境の記録係は口数が少ない男で、入ってきた瞬間に部屋の空気を事務のそれへ切り替えた。カイが二種類の書類を並べ、筆跡の差と一致の箇所を指で示した。書記は黙って頷き、鉄筆を取った。
「本日付で、筆跡照合記録として登録いたします。立会い、2名」
短い確認だった。短いからこそ、取り返しがつかない響きがあった。
姉様が万年筆を受け取った。手袋はまだしていない。インクが指先に少し付くのを、気にしていない。署名する前に一度だけ息を吐いた。「マリエル・ヘルダ」と書いた。机の縁に触れていた指先には、書き終えたあとも迷いの色はなかった。
私も署名した。「ミラベル・ヘルダ」と。5年ぶりに、自分の字を自分の名で、公的な書類の上に残した瞬間だった。
書記が台帳を閉じた。閉じる音は小さかったのに、耳に残った。
「閲覧記録は残ります」と書記が付け加えた。事務的な注意だった。でもその一言が、今日ここで起きたことの形を決めた気がした。
姉様の肩が、それを聞いた瞬間に少しだけ落ちた。安堵のようにも、別の重みを受け取ったようにも見えた。
◇
記録室を出て、中庭に回った。辺境の秋の光は、王都より少し低い位置に差す。乾いた石畳の上を、姉様と並んで歩いた。距離は、並ぶというより、同じ方向を向いているに近かった。
姉様は手袋を嵌め直さなかった。記録室でも、中庭でも、素手のままだった。手袋を嵌めた瞬間に、姉様は「令嬢」に戻る。戻らずに話したい、という無言の手続きを、私は黙って受け取った。
「ごめんなさい」
風の音と同じくらいの声だった。
私は答えをすぐには作れなかった。怒りはもうそこになかった。ないから言葉が出ない、のでもなかった。ただ、受け取る順番を考えていた。
「……今日は、それだけ聞けます」
そう言うのが精一杯だった。全部は無理だった。ごめんなさいを全部受け取るには、私の中にもまだ整理できていない場所がある。3年間、あの書類を手元に置いたままでいた姉様のことを、今日一日で清算できるとは思わない。
姉様が小さく頷いた。「わかっている」、と口の形だけで言った。
一歩だけ、距離が近くなった。近くなっただけで、手は触れなかった。それでいいと思った。
「また来ていいかしら」
私は少し考えてから答えた。
「……来る前に、手紙をください。今度は、正しい宛名で」
姉様の目が揺れた。泣くのかと思ったが、泣かなかった。「わかった」とだけ言って、持っていた別の束を胸に抱え直した。記録室に出した書類とは別の、姉様自身の荷物だった。
◇
書斎に戻ると、カイが机の前に立っていた。さっきの照合記録の写しが一通。そして、見覚えのない封筒がもう一通。並んでいる。封筒には、まだ割られていない赤い蝋が押されていた。
私は写しの方を先に見た。自分の字と、姉様の字。台帳番号。受理印。事実だけが、事実の顔で並んでいる。
「記録は残りました」
カイが言った。いつもの声だ。でも、私には分かった。この人は、「ただ」の前で一度、息を整える。
「ただ——」
「はい」
「この証言は、意図しない方向で使われる可能性があります」
部屋の空気が、一拍遅れて変わった。
「……どういう意味ですか」
「5年間の仕事があなたの名で記録されていた——という事実は、家の問題であると同時に、宮廷側の記録との齟齬を示します。齟齬が公的に確認されれば、それを訂正する動きが王都で起きます」
「訂正、というのは」
「あなたを、薬草顧問として正式に呼び戻す根拠になり得ます」
私は息を止めた。
父が退いた。断れた。姉が証言した。全部、勝ち目だと思っていた。
勝ち目は、同時に、呼び戻される根拠になり得るものだった。
「あなたは、それを予想していましたか」
カイの返事が、少しだけ遅れた。
「……証言を止めることはできました。でも、止めなかった」
「なぜ」
「あなたの名で残した仕事を、あなたの名のままで残してほしかった。その先のことは——後から考えることにしました」
「後から、とは」
「たぶん、今から、です」
言い方が、珍しく率直だった。論理の形をしていなかった。
私は、カイが「論理では」と続けないことに、もう驚かなかった。驚かなかった自分に、少し驚いた。この人は今日、以前の形を捨てた側にいる。私はまだ、どこに立っているのか分からない。
机の上の、もう一通の封筒を見た。赤い蝋。見慣れない紋。
「それは」
カイが少し躊躇してから、答えた。
「……先ほど、門番から届きました。まだ開いていません」
廊下の奥で、辺境の夕暮れが始まっていた。
赤い蝋は、まだ割られていなかった。




