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「完結済」私の名前を、婚約者だけが知りませんでした   作者: 夢見叶
第6章 婚姻を認める代わりに——父の条件は、呑めない

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第29話 3ヶ月前に、あなたは何を考えていたのですか

 3ヶ月前というのは、何を考えていたのですか。


 その問いを口に出す前に、私はカイの手元を見た。神殿の仮申請書控えが折り畳まれている。表紙の日付だけが見えた。3ヶ月前。姉がまだここへ来ていない頃。父の条件書も届いていない頃。


 つまり、問題が起きる前から、この人は動いていた。


 客間では、父が書類を確認していた。カイが「婚姻の仮申請は、すでに神殿に届け出ています。ヘルダ伯爵家の承認は、形式的には任意です」と静かに言うのが廊下まで聞こえた。父の声は聞こえなかった。沈黙は、ときどき言葉より正確に意味を伝える。


 カイが廊下へ出てきた。


「3ヶ月前というのは」と私は言った。


 カイが1度だけ視線を落とした。私はその1秒を見ていた。


「……辺境への経路の整備を始めた頃です。その時点で、何らかの形で正式な関係を記録したいと思っていました」


「それは合理的な判断でしたか」


 カイが答えなかった。


 この人は、聞かれたことに必ず答える。それが「余計ではありません」であっても、「論理では説明しづらいですね」であっても。なのに今日は答えなかった。


 廊下の空気が静かだった。遠くで乾燥棚を動かす音がしている。辺境の午後の音だ。


「合理的な判断ではなかった、ということですか」


 カイの耳が、赤かった。それを見た瞬間、胃の下のほうが熱くなった。怒りとは別の熱で、名前をつけようとすると面倒なことになりそうだった。


「……論理では」とカイが言った。「説明しづらいですね」


 以前もそう言われた。でも今日の「論理では説明しづらい」は、以前のそれとは違う温度があった。



 客間へ戻ったのは、カイと並んでだった。


 父が机の上の書類を見ていた。仮申請書の写しを1枚ずつめくり、紙の角を揃えていた。万年筆は今日ずっとキャップが外れていない。何も書かなかった。書けなかったのかもしれない。


「受理日は」と父が言った。


「3ヶ月と10日前です」とカイが答えた。「神殿台帳に記録されています。閲覧は申請があればいつでも可能です」


 父が顔を上げた。私を見た。査定の目ではなかった。もう少し違う種類の目だったが、何を意味するのかは分からなかった。


「ミラベル」


 そのひと言だけが出た。


 私は答えなかった。父が私の名前を正確に呼ぶことは、もうとっくに知っている。知っていたのに使わなかった。使えなかったのではなく、使う必要がなかったから使わなかっただけだ。


「これで、条件書の第2項は」と私は言った。「当事者間での申請はすでに進んでいる、ということになります。カイ様がご説明した通りです」


 父の指が、書類の端で止まった。


 長い沈黙だった。


 廊下でベルタが何かを取り落とす音がした。私には、それがわざとだと分かった。あの侍女は気が利く。張りつめた沈黙に音を入れたいとき、ちょうどいいものを落とす。


「お前のためを思って」と父が言った。


 その瞬間、5年分の何かが静かに崩れた。怒りではない。もっと古いものが、形を取り戻した感触だった。


「それは」と私は言った。「聞き飽きました」


 自分でも驚くほど、穏やかな声だった。


 父が初めて、私を「見た」気がした。それまでの「査定」ではない目で。でもその目が何を意味しているのかは、まだ分からなかった。


 膝が、少しだけ遅れて震えた。それを悟られないよう、両手を膝の上に置いたまま動かさなかった。怒りで言ったのではない。恐怖を乗り越えて言ったから、震えた。



「知っていて、使ったのですね」


 その言葉が口に出たのは、父の顔を見てからではなかった。条件書の白さを見てから、だった。


 余白が、大きかった。3条件は書いてある。でも紙の下半分は、ずっと空白のままだ。父は何かを書かなかった。書かなかったのか、書かなくてよいと思ったのか、書けなかったのかは、今日の段階では分からない。


「私の名前を、あなたはずっと知っていた。1度も間違えなかった。それでも、5年間、必要なときだけ使った」


 父は否定しなかった。


 肯定もしなかった。


 その沈黙の形を、私はもう知っている。かつては「そうかもしれない」と読んで傷つくことが多かった。でも今日は読み方が変わった。沈黙は、崩れた事実に向き合えていない人間の形をしている。


「条件書を、お返しします」


 私は3通を重ねて父の前に置いた。折り返してはいなかった。折り返してしまうと、それが勝利の身振りになる。今日は事実が並んだだけで十分だ。


 カイが私の少し後ろに立っていた。声は出さなかった。でも、いた。


 父が条件書を手に取った。3通を重ね直して、外套の内側にしまった。万年筆はテーブルに残した。


 椅子から立ち上がる音がした。


「条件は、一時保留する」


 「一時」だ。「取り下げる」ではない。でも「一時」でも、今日は十分だった。



 父が扉を出た後、客間は静かだった。


 テーブルの上に万年筆が残っていた。黒い軸、金のキャップ。今日1度も開かれなかった。何も書かなかった。条件書に新しい要求を書き足すことも、婚姻承認の署名をすることも、どちらもしなかった。


 カイが万年筆を見た。それから私を見た。


「……終わりましたね」と私は言った。声が少し揺れた。


「一時です」とカイが答えた。「ただ、この先のことで——」


「今日は、一時でいい」


 カイが黙った。


 私は万年筆から視線を外して、廊下の方を見た。外の木立が風に揺れる音がした。辺境の午後は、静かになるとき一気に静かになる。


 廊下の突き当たりで、足音がした。軽い、馴染みのある足音ではなかった。


 マリエルが立っていた。胸の前に書類の束を抱えている。白い手袋をしていない。素手の指先が、束の端を押さえていた。


「ミラベル」と姉様が言った。「少しだけ、時間をもらえる?」


 声は柔らかかった。でもその柔らかさを保つために使った力の分だけ、声の芯が細かった。


 私は答えながら、書類の束を見た。


 発注書に似ていた。報告書かもしれない。備考欄の細かい注記が、端からわずかにはみ出して見えた。


 あの書き方の癖を、私は知っている。


 なぜなら、それは私の字だった。

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