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「完結済」私の名前を、婚約者だけが知りませんでした   作者: 夢見叶
第6章 婚姻を認める代わりに——父の条件は、呑めない

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第28話 聞き飽きました——そして、扉が閉まった

 「お断りします」と声に出したのは、初めてだった。


 父への、という意味ではない。誰かに向かって、根拠を持って「断る」という行為そのものが、私にとっては初めてだった。婚約解消のときも、殿下に「お断りします」と言った。でもあれは、既に決まっていたことへの確認だった。今日は違う。相手はまだ諦めていないし、まだ手を残している。


 それでも、私は「お断りします」と言った。


 客間には父と私だけだった。カイは廊下にいる。マリエルも控えている。でも声が聞こえる距離には誰もいない。


 父は反論を準備していたと思う。感情で返してくることも、沈黙することも、想定していたと思う。でも私は昨夜、3条件を全部「なぜ呑めないか」に分解して、言葉を作った。


「顧問就任を家の名義で、というご提案は——私の名前で行う以外の形では意味がありません」


 父が少し顔を上げた。


「辺境伯家との申請を家の窓口で、というご提案は——当事者間ですでに進んでいます」


 父が万年筆のキャップを指の間で回した。


「辺境での記録を家の資料として、というご提案は——私の名前で書いたものを、家に帰属させることはできません」


 沈黙があった。


 父は答えなかった。答えない時間の中で、万年筆のキャップが1度だけ机に当たった音がした。


 そして父が言った。「お前のためを思って」。


 その瞬間、5年分の何かが静かに崩れた。怒りではない。もっと古いものが、形を取り戻した感触だった。


「それは」と私は言った。「聞き飽きました」


 自分でも驚くほど、穏やかな声だった。


 父が初めて、私を「見た」気がした。それまでの「査定」ではない目で。でもその目が何を意味しているのかは、まだ分からなかった。


 膝が、少しだけ遅れて震えた。それを悟られないよう、両手を膝の上に置いたまま動かさなかった。怒りで言ったのではない。恐怖を乗り越えて言ったから、震えた。


 椅子の背に、伯爵家の紋章が彫られていた。それを見ながら私は思った。


 この5年間、私が運んできたものは、全部ここへは帰らない。



 3通の条件書を重ねて、手に取った。父の万年筆は机の端に置かれたままだった。キャップは最初から最後まで外れなかった。何も書かなかった。何かを書こうとしたのかどうかも、分からない。ただ、白い紙に何も増えなかったという事実だけが残った。


「では、失礼いたします」


 父は答えなかった。扉に向かいながら、背後に視線が残る気配があった。振り返らなかった。振り返る必要はないと昨夜のうちに決めていた。それでも扉に手をかけた瞬間だけ、1秒だけ、息が止まった。


 後ろから声は来なかった。


 廊下に出た。扉が閉まる音がした。


 音が消えた後、全部が1度に来た。指先の冷え、心臓の速さ、膝の震えの続き。言っている間は何も感じなかった。終わった後に来る、と昨夜自分で書いていた。その通りだった。



 ベルタが廊下の角に立っていた。


 近づく前から待っていたのが分かった。待機を終えた人間の立ち方をしていた。駆け寄ってもこなかった。声もかけてこなかった。ただそこにいて、私が来るのを待っていた。


「……終わりましたか」


「終わりました」


 ベルタが少し間を置いた。「さすがです」も「よかった」も「当然です」も言わなかった。1度だけ、ゆっくりと頷いた。いつものベルタの速さではない頷きだった。


 その短さが、今日は一番助かった。


 少し歩いてから、ベルタが「……1つ」と言い出した。


「申し上げてよいですか」


「どうぞ」


「廊下というのは聞こえないのに、聞こえないことだけは分かるという、奇妙な場所でして」


「そうね」


「今日の我慢の総数は申しません。ただ」


「ただ」


「お嬢様が言い切ったことは、廊下にも届きました。声ではなく」


 何も聞こえていないはずだった。壁があって、距離があって。それでもベルタは「届いた」と言った。声でないなら、空気の変わり方で、か。時間の重さで、か。そういうことで届くものが、あるらしかった。


「ありがとう」


「報酬はお茶の一杯で結構です。今後も随時、請求いたします」


 笑った。止めようとしたが、間に合わなかった。こういうときに笑わせてくれるのはベルタだけで、それが今日も必要だった。



 廊下を曲がったところに、カイがいた。


 壁際に立って、書類を手に持ったまま、黙っていた。客間の声が届かない距離を測ったような立ち位置だった。私が近づくと、「終わりましたか」と言った。


「はい」


「3条件、全部」


「全部」


 カイが何も言わなかった。2秒か3秒、廊下の空気がそのまま止まっていた。それからカイの肩から、何かが変わった。降りた、ではない。止まった、の方が近い。ずっと続いていた何かが、今日初めて止まったという変化だった。


 懐から書類を取り出した。今回は迷わなかった。折り畳まれた紙を、両手で差し出した。


「日付を、見ていただけますか」


 受け取った。神殿の様式だった。表紙の右上に、数字がある。


 2度、確認した。目で追って、もう1度。


 この日付は——問題が起きる前だ。姉がここへ来る前。父の条件書が届く前。私がまだ、誰かが私のために動いているとは知らなかった頃のことだ。


 顔を上げると、カイがいた。口を開いていなかった。灰青の目が、こちらを見ていた。私が何を確認したかを、先に全部分かった上で待っている目だった。


 廊下の外で、乾燥棚を動かす音がした。辺境の午後の、いつもの音だ。


「3ヶ月前というのは」と私は言った。


 カイが1度だけ、視線を落とした。


 その1秒を、私は見ていた。

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