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「連載版」私の名前を、婚約者だけが知りませんでした   作者: 夢見叶
第6章 婚姻を認める代わりに——父の条件は、呑めない

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第27話 条件は3つ——どれも名前を差し出す代わりだった

 翌朝、白い封筒が3通、机の上に並んでいた。


 父の字は昔から均整がとれている。教育の結果というより、感情の余分を全部削ぎ落とした後に残ったものに見える。宛名に「ミラベル・ヘルダ」とあった。昨日と同じく、正しく。


 私は立ったまま、3通を順番に開いた。


 1通目。王都薬草顧問就任の打診——ヘルダ伯爵家の名義管理のもとで。

 2通目。辺境伯家との婚姻申請——家の窓口を通じて進めること。

 3通目。辺境で積み上げた薬草管理の記録と知見の整理——ヘルダ家の研究資料として。


 読み終えた後、私はもう一度1通目から読んだ。速く読みすぎた気がして。でも、内容は変わらなかった。


 3条件のどれもが、同じことを言っていた。「お前の名前を、家に返しなさい」と。


 ベルタが私の背後で立っていた。さっきから何も言わない。口を挟みたいのをこらえているときの、息の詰め方だ。


「……ベルタ」

「はい」

「何か言いたそうですね」

「帳簿でも、もう少し愛想があります。と言いたかったですが、今朝は3回我慢しました」

「3回も」

「今のが4回目です」


 私は笑いそうになって、止めた。止めながら、少し楽になった。こういうときベルタがいると、感情の一番細いところで息ができる。


 3通を重ねて、手に持った。


 父は合理的だ。感情で動かない。そして私が感情で返すことを知っている。もし私が怒ったら、「感情的だ」で処理される。沈黙したら、「迷っている」と読まれる。これは交渉ではなく、最初から結論を決めた通知だ。


 だから、根拠が要る。感情ではなく、事実で。


 廊下に出ると、カイがいた。書類を持っていた。私が3通を手に持っているのを見て、「読みましたか」と聞いた。

「読みました」

「1つ、確認したいことがあります」


 その言い方が少し違った。「確認したいこと」という言葉は、いつもの彼の言い方だ。でも今日は、懐に手を当てる前に1度止まった。


 持っているのは何ですか、と聞こうとして、聞かなかった。


 答えを知るのが、少しだけ怖かった。


     ◇


「こちらを」


 カイが書類を少しだけ折り返した。1枚だけ、端が見えた。神殿の印が押された薄い紙。私が見ていることに気づいて、すぐ折り畳んだ。


「……いつのものですか」

「3ヶ月前です」


 3ヶ月前。姉がまだここへ来ていない頃。父の条件書も届いていない頃。


 私が何も言えずにいると、カイが「父上との面会には、私が同席します」と言った。「その前に、ミラベル嬢は返答の言葉を整理されたほうがいい」


 整理、という言葉を使った。感情でなく、言葉を。


 それだけ言って、カイは客間の方へ歩いていった。廊下の先で扉が開き、父の低い声が1言だけ聞こえた。何を話しているのか、ここからは聞き取れない。扉が閉まる音がした。


 3通の条件書を手に持ったまま、私はその場に立っていた。


     ◇


 温室に入ると、夕方の光が棚の束を縞模様に照らしていた。


 乾燥中のラベンダーと、昨日採ってきたカモミールが交互に下がっている。辺境の秋は乾燥が早い。王都で働いていた頃より、乾燥の速度を把握できるようになった。5年間で、そういうことだけは正確になった。


 薬草の束を1本ずつ確認しながら、私は3条件を頭の中に並べた。


 1条件目。顧問就任。——これは断れる。名義の問題だから。自分の名前での就任でなければ意味がないと、そのまま言えばいい。


 2条件目。婚姻申請の窓口。——これも断れる。当事者間での話し合いはすでにある。「進めています」と事実を言えばいい。


 3条件目。記録の提供。


 私の手が止まった。


 触れていたくなかった。条件書を読んだとき、③の行でだけ、紙から指が離れた。意識してではない。ただ、離れた。


 5年間、辺境で書き続けた発注書。備考欄の細かい注記。量の誤りが出ないように、私が自分で決めたルール。それを「ヘルダ家の研究資料として」渡す。


 差し出すだけなら、できるかもしれない。でも、それは家の名前に入る。私の名前は消える。5年間、名前のない場所で書き続けてきたものが、正式に名前のない場所に収まる。


 それは呑めない。一番、呑めない。


 カモミールを棚に戻して、手のひらを見た。左手の親指の付け根に、薬草の染みが残っている。宮廷の侍女だった頃にはなかった。辺境に来て半年目くらいにできて、それ以来ずっとある。


 これは私のものだ。5年かけて染みついたものだ。誰かに管理される前に、私がここで働いていたという事実だ。


 「感情ではなく、事実で」と自分に言い聞かせた。でも今、手のひらを見ながら思う。感情も事実の1つなのかもしれない。そこにある、消えない、動かせない。


     ◇


 夜が更けてから、私は机に向かった。


 紙を1枚取り出して、1条件目から返答を書こうとした。


「顧問就任については——」


 そこで止まった。


 言葉が出ないのではない。言葉は昨日の夜から、ずっと頭の中にある。ただ、書き始めると、これを「父への返答」ではなく「自分の言葉」として整えなければならないと分かる。


 急いでいけない。


 3通を机の端に揃えた。白い紙が、灯りの下で少し黄ばんで見えた。父の字の均整が、このくらいの光でも崩れない。昨日気づかなかったが、3通とも余白が大きかった。条件は3つしかないのに、紙の下半分が空いている。


 何かを書かなかった、ということだろうか。それとも最初から余地を残していたのだろうか。


 「3ヶ月前」とカイが言った言葉が、灯りの中で浮かんだ。


 問題が起きる前から、この人は動いていた。何のために、どこまで。私がまだ知らないことが、廊下の向こうにある。


 翌日、返答を持って客間へ行く。そこで何が変わるのかは、まだ分からない。ただ、3条件のどれをどう断るかは、今夜中に決まる。


 1条件目から書き直した。今度は止まらなかった。


 窓の外で、辺境の夜の虫が1種類だけ鳴いていた。王都では聞いたことのない音だった。

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