第三十四話
暗い地の底から太陽に手を伸ばす。
届くわけないと知りながら。しかし目の前に現れた女神はアルエットの顔をして、祝福のような口づけをくれた。
「レン!」
視界が開け、意識が鮮明になったと同時にぎゅうぎゅうと首を締め上げられた。ぐえぇ、と緊張感に欠ける声が漏れる。
「あ、ごめんね!」
ぱっと離れたアルエットは恥ずかしそうに目を逸らした。
「えっと、あの、嫌だった……かな?」
何を言っているのかわからなかった。そもそもどうして彼女がここに、と思考を巡らせると、先ほどまで見ていた悪夢の記憶が蘇ってきた。
まだ幼かったあの日、レンを丸呑みにした金色の獣。それに身体を乗っ取られ、言うことを聞かない。獣はかつて神話の時代に戦った記憶をもとに神子を――アルエットを食い殺そうとした。それはもはや本能で、レンはわずかに残った意識で必死にそれを御していた。
けれど、その欠片のような意識もすべて飲み込まれる。そう諦めかけた時、アルエットの顔をした女神が――
「うっわ」
思い出したら急に恥ずかしくなって、レンはその場にうずくまった。すると傍にいたアルエットは泣き出しそうな顔で俯く。
「や、やっぱり嫌だったよね。レンはずっとわたしのこと、男の子だと思ってたんだし……」
そんなことを言い出すということは、やはり夢だと思っていたもの全部が現実だったのだ。
アルエットは心底申し訳なさそうに謝り続ける。しかし、そうじゃない。そんな必要はないと言いたいのに、混乱して上手く言葉が出てこない。
「いちゃつく余裕があるなら、わたし帰ってもいいですか?」
苛ついた声とともに、デジレが二人の傍へ降り立つ。寝ていたところを駆り出されたせいか目の下にうっすら隈ができていた。
「あの蝙蝠、妙にすばしっこくてなかなか捕まえられないんですよね」
耳元でうるさい蠅でも見るような目で、デジレは蝙蝠に変じた男――ヘラルドを見ていた。そのヘラルドは、レンが自我を取り戻したと察して憎々しげに天井から見下ろしてくる。
「レン! 何をしてるんだ! その女を襲え! 殺せ!」
「ヘラルド。もう、あんたの声は届かない」
何度も何度も囁かれ、レンの意識を糸のように絡め取っていたヘラルドの声。けれど、それもすべて焼き切れた。
拳を強く握る。鉄甲鈎の形を成した聖剣が炎を纏う。レンが一歩踏み出すと、その足には青白い電流が迸って空中を高く駆け上がった。
目の前には唖然としたヘラルドの顔。その顔面めがけて拳を振るった。ヘラルドは咄嗟に身を翻したが、鉤爪は彼の足を捉えて切り落とし、一瞬にして白い灰へと変えた。
人間のものとは思えない、空気を震わせる悲鳴を上げたヘラルドは天窓を突き破って夜空へと逃げていく。レンはそれを追うことなく、降り注ぐ硝子の破片からアルエットとデジレを庇った。
「レン!」
アルエットの呼ぶ声が遠い。耳鳴りが酷かった。聖剣フランムルージュは今はただの腕輪に戻っていたが、それにすべての力を吸い取られてしまったように身体が重い。
何度も呼びかけてくるアルエットの声を聞きながら、レンは倒れ伏して意識を失った。
まさか、こんなことになるなんて。
ヘラルドは夜空を駆けながら、悔しさと痛みに歯噛みした。
レンに奪われた魔獣の力。それを取り戻したかっただけだ。そのために手間暇をかけてあの少年を育てた。
五年前、偶然知ったエテーリアの秘密。本物の神子が山奥に隠れ住んでいると知った兄はそれを食い殺すことに躍起になっていた。魔獣の本能に支配されつつあったのだ。
しかしヘラルドは、自分なら逆に魔獣を支配できると思っていた。兄なんかよりずっと適正があると。だから欲した。こんな醜い蝙蝠の姿ではなく、美しく強い獅子が欲しかった。
それをレンが、たまたまそこにいただけの少年が、横からかっ攫ったのだ。
「くそっ……!」
憎しみを吐き捨てる。その視界の端に、何か光るものが映った。
鐘楼の、尖塔の先。銀色の髪を夜風に揺らした青年が、弓矢の切っ先をヘラルドに向けていた。
瞬きをする暇もなかった。ヘラルドを射貫いた矢はその身体を氷で覆い、一瞬にして粉々に砕け散る。
聖剣グラキエースを腕輪へと戻した騎士ハインツは、眉ひとつ動かすことなく身を翻すと主の元へ駆け戻っていった。




