第三十三話
「見たところ、彼は魔獣の力に影響を受けてそのような姿になっているようですね。自分の意思でそうなったわけではないなら、何者かによる洗脳でしょう」
言いながら、デジレは天井にいる男をじとりと睨んだ。
「精神的なものですので、いくらわたしが天才導士と言えども元に戻す方法はわかりません」
「じゃあ、どうすればいいの?」
「今の彼は目隠しをされて耳を塞がれているようなものです。でもアルエット様のことはなんとなくわかるみたいなんで、もうちょい刺激してみれば完全に覚醒するんじゃないですかね」
「具体的には?」
「ぶん殴るとか?」
デジレの返答は投げやりだった。それでも、可能性があるなら何でもやるしかない。
「一撃入れられるかどうか、それが問題だけどね。――参っちゃうな。昔はわたしのほうが強かったのに。身長も追い越されちゃったし、もう勝てるところなんて残ってないよ」
勝算は何もない。拳を一発叩き込めたとして、彼を元に戻せるとは限らない。いっそ笑ってしまうくらい無策だ。
アルエットが一歩近寄るとレンは地響きのように吼える。警戒しているのか。まるで手負いの獣だ。刺激などすれば余計に暴れさせるかもしれない。
しかしそんなことは言っていられなかった。蝙蝠の翼を拡げた男が羽ばたくと氷の礫が一斉に降り注いでデジレを襲った。それを彼女は杖の一振りですべて粉々に砕き、氷の欠片がきらきらと散る。
それを皮切りに二人の攻防が始まった。これでもうデジレの手助けは得られない。
アルエットは取り落とした槍を捜した。かなり遠くまで転がっている。あれを取りに行く暇はない。使えるのはこの身ひとつのみだ。
己を落ち着かせるために深呼吸をする。すると、わずかに首元が痛んだ。無意識に触れると指先にべたりと何かがつく。それを目にし、ぎくりとした。
血だった。思わず傷口を探る。けれど、ごく浅い裂傷であり致命傷にはほど遠い。
先ほど咬まれた時に牙が当たって裂けたのだ。しかし、この身体を傷つけられたことにアルエットは衝撃を受け――笑みを浮かべた。
「……そういうことか、レン」
大きく一歩踏み出す。レンは再び吼えた。それでもアルエットは足と止めない。
レンは吼えるだけだ。デジレの攻撃を防いだ時のように電撃を発したりはしない。先ほどもそうだ。彼は決して、アルエットに電撃は使わない。いいや、それだけではない。彼の攻撃をすべて避けられたのは、決してアルエットの敏捷さによるものではなかった。
「戦っているんだね、レン。自分自身と」
恩寵の翼は発動しなかった。悪意をもつ攻撃を弾き返す盾。逆に言えば、悪意のない者のみがアルエットに触れられる。
「君はわたしの守護者だ。これからもずっと」
届いているのかどうか、わからない。それでも語りかける。レンは唸り声を上げながら後退る。
アルエットは力強く床を蹴り、丸腰のままレンの懐に飛び込んだ。振り上げられた爪の一撃は寸前で止まる。傷つけたくないと躊躇うように。
「やっぱり、そうだ。君は昔から優しい」
レンの首に両腕を回し、アルエットは溌剌と笑った。ファルコとして彼の傍で暮らしていた時と同じ顔で。
「ねぇ、レン。あの日、言いたかったことを今、言わせて。びっくりしたらごめんね? ――好きだよ」
思いっきり驚かせてやれとカーラたちに送り出されてからずいぶん経ってしまった。あの時と同じように正体を明かして驚かせることはもうできない。
だから代わりに、そっと啄むような口づけを落とした。
一瞬の静寂。その直後、轟、と音が渦巻いた。目が眩むほどの光に包まれる。しかしそれは恩寵の翼でも迸る電撃でもなかった。赤い、赤い炎。アルエットを灼くことなく、レンだけを飲み込んだ炎は彼の右腕へ――腕輪の形をした聖剣フランムルージュへと集約する。炎が納まるにつれレンは人の姿を取り戻していく。
そして聖剣は、真っ赤に輝く鉄甲鈎へと変化した。




