第三十二話
ハインツを警戒してか、距離を取ったままでいたレンが再び攻撃の姿勢に転じる。
アルエットにできることは、ただそれを避け、受け止めるだけ。
ひとりで大丈夫だと啖呵を切ったものの、正直なところ何をどうしたらいいのかわからない。レンを傷つけたくはない。かといって元に戻す方法も知らない。
そのうえ、一撃でも躱し損ねたら彼が死ぬ。
人間には不可能な速さで、レンはアルエットを追い詰める。息を整える間もない。たった一声、彼の名を呼ぶことすらできない。
叩きつけるような爪の一撃。大きく後ろに跳んで避けた。その背中に衝撃を受け、アルエットは慌てて背後に目を向けた。
そこには氷の柱が出来ていた。さっきまでこんなものはなかったはずだ。氷の技はハインツが使うけれど、彼がいた時にもなかった。
頭上から愉快げな笑い声が降ってくる。天井に張り付いている蝙蝠男だ。
あの男がやったのか。まるで大きな獣に小さな獲物を襲わせて楽しむ悪趣味な遊戯のようだ。
アルエットが避ける先、行く手を阻むように氷の柱や壁が出現する。それを盾にして隠れても、レンは易々と打ち砕いて襲いかかってくる。対し、アルエットは徐々に死角が増え、さらに分が悪くなってきた。
もはや攻撃を受ける余裕もなく、ただ逃げるばかりになっていた。打開策は何もない。けれど止まるわけにはいかない。
「あっ!」
足が宙を蹴る。何が起きたのかわからなかったが、背中を強かに打ち付けて痛みが走ってから、床の氷で足を滑らせたことに気づいた。はずみで握っていた槍が手から離れ、遠くまで飛んでいった。
仰向けに倒れたアルエットの両腕を抑えるようにレンが組み伏せた。唸り声を上げ、牙を剥き、その喉元に食らいつく。
首筋に微かな痛みを感じ、アルエットはきつく両目を閉じた。レンが死ぬ。ばらばらに引き裂かれて。そんな姿は見たくなかった。
それはほんの一瞬か、もっと長い時間だったのか。閉じた目の端から涙がひと筋流れた時、アルエットは静寂に気がついた。
何も起きない。恩寵の翼が発動しない。
首にはまだ痛みがあった。しかし、苦痛を覚えるほどではない。低く震えるような唸り声を上げながら、レンはアルエットの首に食らいつき、しかしその牙を深く突き立てることはなかった。
「……レン?」
やっと、彼の名を呼んだ。すると組み伏せていた力が弱まり、首の痛みも軽くなる。
顔を上げたレンと視線がぶつかる。わずかに面差しが残る獣の顔。その紫紺色の瞳に、天窓から入る月明かりが揺れていた。
「泣いてるの?」
いつの間にか解放されていた手を、そっと彼の頬に添える。それに応えるように、彼の目からひとしずく涙が落ちてアルエットの指先を濡らした。
「レン、何をしてる!? 早くそいつを――」
頭上高くから男の声が聞こえた。しかし彼の言葉は鋭い炸裂音によって阻まれる。
「うーん、威力はいまいち」
次に聞こえたのは緊張感に欠ける声。新手の登場にレンはアルエットから飛び退いた。
自由になり、立ち上がったアルエットの目に白い寝間着姿の少女が映った。栗色の長い癖毛が鳥の巣みたいになっている。
「デジレ! どうしてここに?」
「セシリア様に叩き起こされまして」
言いながら、くぁぁ、と眠そうに欠伸をする。
普段一緒に寝起きしているアルエットは、デジレが一度寝ると朝の決まった時間まで滅多なことでは起きないと知っている。それを叩き起こしたとは何をしたのか。穏やかな姉の底力と、今ここに一番欲しい戦力を瞬時に判断した聡明さに笑みが零れる。
デジレは手に持っていた数枚の紙を空中に放り投げた。羽虫のような形をしたそれは彼女の周囲をはたはたと舞う。
次いで、普段は簪として使っている杖を振るった。すると紙の虫は統率の取れた動きでレンに向かっていき、次々と小爆発を起こす。レンは煩わしそうに頭を振り払うと、全身に電流を纏いそれらをすべて焼き落とした。
「やっぱりこの試作品はだめですね。じゃあ次は――」
「待って、デジレ! あの獣はレンなんだ!」
慌ててアルエットが止める。デジレの助力はありがたいけれど、レンを傷つけることは望んでいない。
デジレは可愛らしく小首を傾げ、レンと、そして天井に張り付く男を交互に見ると大きく頷く。
「なるほど。わかんないけどわかりました」
雑に答え、彼女は杖先を天井に向けた。
「じゃあ、あれは倒しちゃっていいやつですね」
「……ガキが、舐めたことを」
軽い口ぶりに男が気色ばむ。しかし彼は明らかにデジレを警戒していた。
この男の力。氷の術の使い手だ。昼間に襲撃してきた者と同一人物であろう。デジレの実力を瞬時に察知して撤退した。鋭い男だ。
「いいよ。そっちはお願いね。あと、レンを元に戻す方法を教えてほしい。わたしに出来ることならわたしがやる」
レンはまだ、ばちばちと電流を迸らせている。猟師に追われる獣のように姿勢を低くして唸り声を上げていた。
アルエットには、それが助けを求めているように聞こえた。




