第三十話
吹き抜けになっている演習場の回廊。柱の陰に身を潜めたハインツはその異様な光景に息を呑んだ。
仲間が聖殿内部に侵入している可能性があるとレンは言った。
――俺がひとりになればきっと出てくるはずだ。もし何か少しでもおかしな動きがあれば迷わず俺ごと射殺してくれ――
その覚悟に嘘はないと断じた。しかし、従僕の姿をした若い男が何事か彼に囁いた途端、異変が生じた。
うずくまったレンが頭を抱えて苦しみはじめる。冷笑を湛えてその姿を眺める男に、ハインツは武装化した聖剣グラキエースを構えた。
氷の弓矢の形を成す聖剣。セシリアを守るために、神子になったばかりのアルエットによって授けられたものだ。
男とレンの距離は近い。だが迷いはなかった。主は違えど、同じ守護者として、下手に情けをかけないことこそ敬意。
弦を引く。引き絞る。鏃を向けた、その瞬間。
男が顔を上げた。階下にいたはずの姿は蝋燭の火を吹き消したように失せ、瞬きすらできないほどの間にハインツの眼前へと迫ってきた。
「ばぁ」
舌を出しておどけた表情を見せる男。咄嗟にその顔めがけて矢を放ったが彼の姿は再び消え、氷の矢が当たった回廊向かいの柱が凍てつく。
仕留め損ねたことを歯噛みする間もなく殺気は頭上から降ってきた。反射的に跳んで避けると回廊の床一面が氷に覆われる。
「……お前がアルエット様を襲った賊か」
ハインツと同じく氷の術の使い手。導士であろうと踏んでいたが、外れたようだ。
天井に張り付き見下ろしてくるその姿。両腕の下に黒い皮膜のようなものがぶら下がっている。まるで蝙蝠だ。
魔獣、という言葉が脳裏を過ぎる。それとほぼ同時だった。
うずくまっていたレンがゆらりと幽鬼のように立ち上がる。項垂れ、力なく下げた両腕。それがごりごりと音を立てて形を変えはじめた。金の被毛に覆われ、爪は鋭く長く伸びていく。
伏せていた顔を上げたレンが牙を剥きだし雄叫びを上げた。それは獣の咆哮であった。黒髪は金色に染まり、もはや別人――いいや、人間ですらない。
「おぉ!」
男が歓喜の声を上げた。その意味など知らないが、構わずハインツは射る。考えるのは後だ。まずは目の前にいる敵を倒すのみ。
しかし放った矢は天井の一部を凍てつかせただけだった。蝙蝠と混ざり合った姿となった男は頭上高くを自在に飛び回る。
「邪魔をしないでくれよ。俺はこれから、あれを取り返さなきゃいけないんだ」
より獣に近い姿形へと変容していくレンを見下ろし、男は言った。
「あれはもともと俺のものだ。兄貴から奪うはずだった、雷槌のアーリックの力」
その言葉と同時に、獅子のような姿となったレンの体に電流が帯びる。
雷槌のアーリック。かつて精霊フランムルージュが戦いの末に封じたという魔獣の名だ。
「兄貴は運の良い奴でな。蒐集家の豪商が隠し持っていた魔宝珠を手に入れて、飲んだ。そいつがアーリックの力を宿していたんだ。俺が飲んだものはこんな、雑魚みたいな力だったっていうのになぁ。それを、あのお姫様を食い殺そうとした時に、宿主を失ったアーリックはたまたま近くにいたレンに乗り移ったんだ」
憎しみの眼差しをレンに向ける。その顔には仲間としての情などひとつも見当たらなかった。
「だからあれは俺のものだ。レンにはお姫様を殺してもらう。いいや、殺せなくたっていい。あいつが兄貴にみたいにばらばらに砕け散ったらアーリックが出てくるはずだ。それを俺が、今度こそ俺が奪い取る」
「そのために暗殺者として育てたのか」
氷の弓矢を構えながら、初めてハインツは言葉を掛けた。当然、侮蔑を込めて。
「自分で下手に手を出して、魔獣の本能で反撃されたらこっちが危ないからな。あの日と同じことをお姫様にやってもらうのが一番だろう? レンはな、俺のために死ぬ。俺のための死せる神なんだ」
レン・マクベイン。アルエットの手紙に頻繁に書かれていた少年の名だ。会ったこともなかったが、アルエットが彼をどう思っていたのかは知っている。
それなのに、アルエットにレンを殺させるなど、なんと惨いことを。
「させるものか。我が主は、妹君の悲しみを何より厭う」
言って、ハインツは鏃の先をレンに向けた。
この男の始末は後でいい。こいつの狙いはセシリアでもアルエットでもない。ならば先にレンの動きを封じる。その後で彼を生かしておけるか、魔獣の力を分離させることができる否かはその筋の者――デジレ・クララックの領分だ。
虚空に吼え続けるレンに、今まさに氷の矢を放とうとした時だった。
演習場の扉を蹴破るように開け、アルエットが姿を現した。その背後には彼女を引き留めようする騎士たちの姿がある。
「レン! レンはどこ!?」
「ちょ、待って、待ってください殿下! 姫様! ねぇ、待って!」
槍を抱えるように両手で持っておろおろするばかりの小柄な騎士はシモン。その隣にはユーグとブノワもいる。賊の数が不明なため、セシリアとアルエットの居住区を警護するよう彼らに命じてきたが、それがかえって彼女に異変を勘づかせることになってしまったようだ。
そして、アルエットがこんなに慌てて出てきたのなら当然――
「アルエット、ひとりで行ってはだめよ! ハインツもいないの、何かおかしいわ!」
杖で歩く先を探りながらも、しっかりとした足取りでセシリアも現れた。こちらもニーナが引き留めようとしているが、彼女の歩みは止まらない。
今夜はセシリアの部屋で一緒に過ごすと言っていた。それが仇になったか。セシリアの姿が視界に入った瞬間、弓を構える手がわずかにぶれる。ハインツが矢を放つと同時にレンはその場から消えた。
いいや、消えたのではない。高く、高く跳んだのだ。
人間と獅子の混ざり合った化け物。レンと呼ばれた少年だったものが、アルエットめがけ、その鋭い爪を振り上げた。




