第二十九話
夜半過ぎ、灯りの落ちた演習場でレンはその時を待った。
場所はどこでも良かった。他に誰もいない、人目に付かない所なら、きっと向こうからやってくる。
「よぉ、死神」
耳に馴染んだ声がした。闇の底から這い出るような声。物陰から現れた姿も、まるで虚空から滲み出たように気配を感じさせなかった。
「ヘラルド……」
兄のように慕っていたその人の名を呼ぶと、彼はいかにも無害そうな顔で笑った。
招き入れた使節には、道中で雇った従僕が幾人か含まれていた。一行を立派に見せかけるためによく行われる見栄の張り方だ。そして、そのような隙間があればするりと入り込むのが彼の手口である。
「そう怖い顔するなよ。俺はただ、お前を手伝ってやろうと思って来ただけさ」
「手伝う? 何をだ」
「そりゃあもちろん、あのお姫様を殺すのをさ。お前がずいぶんもたついてるから、心配してやったんだよ」
「……昼間、アルエットを襲ったのもやっぱりあんたか」
その問いにヘラルドは答えなかった。ただ薄い笑みを浮かべるだけ。
使節に紛れ込み、時を置かずにアルエットを襲撃してまた王都に戻る。不可能なようだが、やりようはあるだろう。従僕の衣装さえ手に入れておけば、慣れぬ場所で迷い出てしまったふりをして侵入できる。先に中へ入れていた仲間と入れ替わることなど彼なら造作ないはずだ。
「ああすれば、お前が手柄を焦ってさっさと殺ってくれるものと思ってたんだがなぁ。俺の言うことなら何でも聞く良い子だったお前がどうしちまったんだ、レン?」
顔は笑ったまま困ったように頭を掻き、ヘラルドがレンの名を呼ぶ。白々しいその表情と声音に怖気がした。
「あんたは嘘をついていた」
レンが絞り出すように言うと、彼はようやく表情を変えた。口元は笑みを湛えたままだが、レンを見据える目が暗闇で妖しく輝いていた。
「俺の家族は誰ひとり死んでいなかった。ファルコ――アルエットもそうだ。なのにあんたはあの日、全員死んだと言った」
「名指しはしてないぜ。大人ひとりと子供が五人、合ってるかと訊いただけさ。――まぁ、焼死体だと思ったものがただの瓦礫の燃えかすだったかもしれないけどなぁ?」
ふざけた物言いにレンは拳を強く握ってヘラルドを睨み据えた。
あの日、逃げるオルガたちを木陰から見ていたのは間違いなく彼だ。なのに全員死んだと、目を覚ましたレンに嘘をついて騙した。
「何が目的だったんだ。なんであの時、俺を助けた?」
「――どうしても、お前にあのお姫様を殺してもらう必要があったからさ」
「俺はアルエットを殺さない!」
とうとうレンは声を荒らげた。しかしヘラルドはどういうわけか、より一層笑みを深める。
「いいや、殺すさ。お前は必ず」
言いながらヘラルドは無遠慮に歩み寄ってくる。
レンは身構え、握った小刀を振るった。しかし彼は幽霊のようにふわりと躱し、レンの耳元に唇を寄せた。
「考えるな、殺せ」
何度も、何度も言われた言葉だ。耳に、脳に、染みついている言葉。
初めて狩りをした時も、あの哀れな野兎を楽にしてやった時もそうだった。
この言葉が、この声が、水に垂らした墨のようにレンの意識を染めていく。
視界は真っ暗だ。何の音も聞こえなくなる。己が何者なのかさえ、わからなくなっていく。
意識を手放してはいけない。足掻く。暗い水底から這い上がるように藻掻く。
光が見えた気がした。そこにいるのは誰だ。太陽のような、お前は誰だ。
真っ暗闇から見えた光。眩しくて目が潰れそうになる。それでも目を逸らせなくて、光に触れたくて、手を伸ばす。
あぁ、そうだ。あれはお前だ。
緋色の、元気すぎるほどによく飛び跳ね回る――美しい、野兎。




