第十七話
降り出した雨は勢いを増した。
この雨はすぐに止む。空の向こうに晴れ間が見えている。けれどレンにはこの一瞬が永遠のように思えた。
悟られた。まずそれが失態だ。しかし想定外とは言えない。当然、そうなった場合に備えて二の手三の手を考えている。暗殺に失敗した場合、捕らえられたり己が殺されたりしてはならない。亡骸は雄弁だ。暗殺者の存在を形として残してはならない。たとえ処罰されることになっても生きて帰らなくてはならない。
撤退か、あるいはこのまま戦うか。
何度か手合わせした時に彼女は決して手を抜いておらず、実力はレンのほうがわずかに上。勝てるはずだ。けれど体が動かなかった。
何故、名前を知っている?
言葉は声にならなかった。濡れた髪の先から雫が滴る。アルエットも同様に、緋色の髪が微笑みを湛えたままの顔に濡れて張り付いていた。
金色の瞳はまっすぐにレンを見つめている。いつの間にか彼女の細い指は剣の柄に添えられていて――安堵したように、小さく息を吐いた。
「そう。やっぱりわたしなんだね。姉様じゃなくて良かった」
良かった、ともう一度小さな声で呟いて、アルエットは俯いた。目の前にいるのが暗殺者だとわかっているのに視線を逸らした。隙か、それとも罠か。レンが迷った一瞬の後、彼女は再び顔を上げた。その微笑みはひどく悲しそうなものに変わっていた。
「どうしてなんて、訊く必要ないよね。恨まれて当然なんだから。でも、でもね……」
はらはらと頬を伝う雫。それは雨ではなかった。アルエットの、太陽のような双眸から零れ落ちる涙だった。
「わたしは、君が生きていてくれたことが本当に嬉しかったんだ」
雲間から差した光が降り注ぐ。雨の雫が光の粒となって輝く。その輝きを弾かせて、アルエットはすらりと剣を引き抜いた。
「だから、どうか退いてほしい。わたしは君を死なせたくない。絶対に」
片手での構え。この構えをレンは知っている。踊るように優雅で、けれどお行儀が良いばかりの剣術ではなく時には蹴りや拳も繰り出す。
かつて家族として暮らした少年の姿がアルエットにぴたりと重なる。そんなまさかと目を見開いて、それに気づいた。
アルエットの白いシャツ。雨に濡れてわずかに透けている。その胸元、鎖骨の下あたり。
鳥の翼に似た形の痣があった。
「ファルコ……?」
無意識にその名が滑り出た。
セシリアの痣を見た時の既視感は気のせいではなかった。レンはまったく同じものを見たことがあったのだ。その時は、それが何を意味するのか知らなかっただけで。
アルエットが息を呑んだのがわかった。構えた剣の切っ先が揺れる。
その反応こそが答えだった。でも――
「そんなはず、ないだろう? 生きてるはずがない。それに、あいつは……」
いくつもの疑問の渦に翻弄され、頭を抱えたくなる。しかし次の瞬間、ぴりっと肌を焦がすような感覚に意識が覚醒した。飛び出すように地面を蹴ってアルエットに肉薄し――彼女の背後に回って小刀を振るう。
何かを斬った手応え。かつんと地面に落ちる音。両断された弩の矢だった。
すぐさま周囲の気配を探った。囲まれている。混乱していたために気づくのが遅れた。
アルエットの命を狙う別の何者かだろうか。いいや、これはきっと――
「くそっ!」
レンは咄嗟にアルエットの手を掴んで走り出した。その意味を悟ったのか抵抗することなくついてくる。むしろ、土地勘のないレンに「こっち」と獣道を示した。
標的を、殺さなければいけない人間を助けてしまった。どうかしている。とんでもないことだ。けれど体が動いてしまったのだ。
それに、不思議と後悔はしていない。
アルエットの手を握り直すと、細く華奢な指が握り返してきた。
あの日、失ったはずの温もりが今、この手の中にある。




