第十六話
山道の管理小屋には老夫婦が住んでいた。
アルエットの姿が見えるなり相好を崩し、まるで孫娘でも出迎えるような気安さでの歓迎。そのうえ、初めて会ったレンのことも気になる様子であれやこれやと世話を焼こうとしてきたのだから堪らない。この王女が選んだ守護者に好奇心ありありなのはわかるが、暗殺者という身の上、知りたがりは苦手だ。
根掘り葉掘りを愛想笑いで躱し、馬房に馬を入れさせてもらう。
「今は晴れているけれど、もうしばらくしたら雨雲が通るかもしれませんよ。気をつけていってらっしゃい」
小屋を出る際、老爺はそう言った。山に暮らす者は天候を読む力に長けている。通り雨ならここで一時待つのもありだとレンは考えたが、アルエットは先へ進む判断をした。
事前に言われた通り山道は整備されていて歩くのに苦労はない。馬が歩けないほどの勾配でもないのだから置いてこなくても良かったのではないかと思った。しかしアルエットはまるで散策を楽しんでいるかのようで、リスの子を見つけては追いかけ、鳥の声が聞こえれば鳴き真似の口笛を吹いた。
何が目的なのかと思っていたが、なんのことはない。やはり単なる野遊びだったらしい。拍子抜けしながら、レンは彼女の後ろについて歩いた。
束ねた緋色の髪とスカートを軽快に揺らして前を行く彼女の隙を窺う。相手が武器を持っている以上、気づかれて抵抗されるのは面倒だ。
「見て、マルセル。綺麗な蝶がいるよ」
捕まえようと伸ばした手を逃れ、蝶はひらりと逃げていく。アルエットの遥か頭上を飛び越えて、背の高い木の枝先に留まった。
「登らないでくださいよ」
上を見上げるアルエットの姿に、ついそんな言葉が出る。驚いたような顔で振り返った彼女は金色の目を丸々とさせ、それから、この上なく嬉しそうに笑った。
「でも、君なら受け止めてくれるでしょ?」
それは守護者への信頼か。再び前を向いて歩き出したアルエットの足取りは先ほどよりも浮ついていて、軽やかだ。
その後を慌てて追いかけながら、レンは俄に感じた動揺を抑え込むように自身の唇を親指でそっと撫でた。
ほぼ無意識の言葉だった。アルエットはただ木の上を見上げただけだったのに、ひょいと飛び上がって登ってしまうような、そんな気がしてならなかったのだ。
突飛なことをする彼女だからそう思っただけ。己を納得させるように唇をきつく引き結び、彼女の背中を強い眼差しで見つめた。
ここで、今日で終わらせるんだ。終わらせたい。アルエットの傍にいると心がざわついてならない。頭の芯に痺れのような痛みを覚える。
気まぐれに歩むアルエットは、今度は道の端にしゃがみ込んだ。何かと思えば綿毛のついた花をひとつ手折って、ふぅっと息を吹きかける。
風に乗って飛んでいく綿毛を満足そうに眺め、またひとつ手折った。
白い綿毛の花を持つ手は右手。アルエットの利き手は、今、ふさがっている。
外套の下、袖に隠した小刀を素早く握った。
簡単なことだ。後ろから組み付いて喉を切り裂けばそれで済む。防具もなく、白いシャツの立ち襟に覆われただけの細い首など容易い。終わった後には、レンの足元に動かなくなった野兎が倒れているはずだ。
狩りをする獣特有の凪いだ気配でレンはアルエットのすぐ背後に立った。痺れるような頭の痛みも消えていた。思考を止め、握った小刀にのみ神経を集中させ――
ふっ、と。
アルエットが笑うように綿毛を飛ばした。その瞬間、レンは大きく跳び退って距離を取った。止めた思考の中、体を動かしたのは本能だった。
「ねぇ、マルセル。ひとつ、訊きたいことがあるんだけど、いいかな?」
軸だけになった花をそっと地面に置き、アルエットはゆっくり立ち上がる。明るい声音。普段と変わらないような。
風が強く吹いた。飛ばされた綿毛が天高く舞い上がっていく。いつの間にか空は黒々と陰って、振り返ったアルエットの頬に大粒の雨の雫が落ちて流れた。
「マルセル。――いいや、レン。君はどうして、わたしを殺しにきたの?」




