第十一話
ファルコの怪我は思っていたほど酷くはなく、十日ほどで立ち上がれるようになり、一月もする頃には以前と変わりなく走り回れるようになっていた。
とはいえ、それは導士による治療と献身的な看護の賜物だ。近隣の村でも良く効くと評判の薬と、神聖文字を記した包帯がなければ、もっと長く動けないままだったろう。
あの日、ファルコを負ぶって戻ってきたレンは、今まさに二人を捜しに行こうと出てきた導士と鉢合わせた。
すぐに何があったのか察した導士はファルコを彼の自室へと運び込み、熱が下がって目を覚ますまでの間、部屋には誰も入ってはいけないと皆に言いつけた。
その様子があまりに深刻そうなものだから、カーラとハンナもひどく心配していたし、エリーとマリーはこの世の終わりかというほどに大泣き。翌日には熱は下がって意識も戻り、一安心だったわけだが、無茶をするなと導士にこっぴどく叱られていた。
平穏な暮らしの中、起こる事件といえばこの程度だった。誰かが些細な怪我をした、熱を出した、庭の菜園を動物に荒らされて囲いを作った、等々。
その平穏が終わる前兆だったのだろうか。ある晩の夕食後、食器を洗う当番だったファルコに、導士がそっと何かを耳打ちした瞬間、彼の表情が強張ったのを同じ当番だったレンははっきりと覚えている。
「レン、ファルコに少し話があるの。一人でお願いできるかしら」
導士、オルガ・マクベイン。二十代の頃、孤児だったレンを拾って以来、この教会を孤児院としてたった一人で子供たちの世話をしている。この時すでに三十代の半ばであったが、結い上げた艶やかな黒髪は若々しく、小柄で幼げな顔立ちも相まって母というより姉のようでもあった。ものの道理には厳しいが、常に優しく穏やかな人だった。
「別にいいけど……」
レンが承諾すると、オルガはファルコを連れて食堂を出て行った。
こういうことは今までにもあった。決まって、導士のもとへ誰かから手紙が届いた日だ。
手紙はいつも、身なりの整った使者が持ってくる。決して派手ではないが、近隣の村や町で会う人々とは纏う空気が違った。
けれど、それを変だと思うことは一度もなかった。オルガはもともと貴族の出身で、導士としての力を持つために家を出た身であったからだ。きっと昔の知り合いなり、それなりの身分の人からの使者なのだろうと思っていた。
それに、子供たちだって、皆が天涯孤独というわけでもない。産まれたばかりでやってきたエリーとマリーはそれぞれ産みの親を亡くしてはいるが、親族はいた。貧しい故に引き取れないと困り果てたその親族が、導士を頼って連れてきたのだ。
だからファルコにもそういう関係の誰かがいてもおかしくはない。彼はオルガの知り合いの頼みで引き取られてきたのだし、その知り合いから来る手紙がファルコに関わるものである可能性はあったのだ。
ただ、あんな表情は初めて見た。いつもなら手紙が届いた日に呼び出されると少し嬉しそうにしていたのに。
そして翌朝のこと。ファルコがその知り合いに引き取られ、教会を出て行くとオルガによって皆に告げられた。それも、数日後には発つという。
まず真っ先に泣き出したのは気の強いカーラだった。ハンナもぽろぽろと涙を流し、事情がよくわかっていなかったエリーとマリーもつられて泣き出した。
そんな中、レンは何の反応も示さなかった。ファルコが窺うように視線を向けてきたが、無言で目をそらしてしまった。
妹たちが泣いたのは、別れを受け入れたからだ。あまりに唐突なさよならに、レンの心と頭がついていかなかった。だからそんな態度を取ってしまったのだ。
ファルコにとっては理不尽なことだったろう。でも、一度そうしてしまうと引っ込みが付かなくなって、レンはファルコを避けるようになった。彼が話しかけてきても理由をつけて逃げ、夜も食事が済むとさっさと自室へ戻って寝る。それはファルコが出発する前日まで続いた。
ところが、その日の朝。目を覚まして部屋を出るとファルコが待ち構えていて、不意をつかれたレンはとっさに扉を閉めてしまった。
「ねぇ、レン。開けてよ。どうして逃げるの?」
「……逃げてない」
「嘘だ、逃げてる」
扉を挟んで押し問答。ファルコの声は、初めは怒っているようだったが、次第に弱々しくなっていった。
「あのね、レンに……君にだけはどうしても話しておきたいことがあるんだ。だから、今晩、聖堂に来てほしい。……その……ひとり、で」
躊躇いがちに、尻すぼみになっていく言葉。しかし最後ははっきりと告げた。
「来てくれるって信じてるから」
扉越しであっても、凜然と顔を上げたのがわかる声だった。
レンの返事を待たずにファルコの足音は遠ざかっていく。
そうして始まった最後の一日を、ファルコは何事もないような顔で過ごしていた。
いつもより少し豪華な夕食の後、妹たちにおやすみを告げ、レンには見向きもせず自室へ戻ってしまった彼ははたして何を言いたいのか。
悩みに悩んだ挙げ句、レンは聖堂へとやってきた。
皆が暮らす母屋のすぐ横に、小さいながら石造りの立派な聖堂があった。オルガが毎日の祈祷を欠かさないこの場所は常に清浄な空気が保たれている。
開けた小窓から入る月明かりに照らされ、女神の彫像が微笑んでいた。その顔がどことなくファルコに似ているような気がして、気まずくなる。
「遅いし……」
落ち着かない気持ちを紛らわすために、ひとり呟く。実際、ずいぶん待っている気がする。呼び出してこんなに待たせるなんて一体何をしているのか。
聞こえてくるのは風が梢を揺らす音と梟の声だけ。本当に来るのかと、不安になり始めた頃、ようやく別の音が聞こえた。人の足音と――話し声。
聞いたことのない声だった。しかしこんな夜更けに誰だ。近隣の村に急病人でも出て、オルガを呼びに来たのか。
異変を察したレンが顔を上げた、その瞬間。
窓から差し込む閃光。それとほぼ同時、聖堂の壁が突き崩され、そこでレンの幸福な記憶は途絶えた。
その記憶の最後、金色に輝く巨大な獣の幻を見た。
獣が大きな口を開け、丸呑みのするように迫ってくる、そんな光景だった。




