第2話 とある暗殺者の決意
退廃的な漆黒の木目調が支配する『喫茶店 月と魔法〜裏庭の影〜』。
暖炉で燃える濁った紫色の炎が、壁に飾られた不気味な遺品――裁かれた者たちの残骸を揺らめかせていた。
ハイバックチェアに深々と腰掛けた黒の魔女、リラ。
つばの広い漆黒の帽子、夜の闇を溶かしたような黒髪、そしてすべてを冷たく見下す漆黒の瞳。
彼女は華奢な指先で、紫の炎にかざしたクリスタルグラスをゆっくりと傾けていた。
グラスから透けて見える、一振りの剣。
「昨日の聖騎士の剣……飾ってみたけれど、やっぱり見苦しいわね。あの泥臭い正義感が移りそうで不快だわ」
リラは薄い唇を歪め、心底心底退屈そうに呟いた。
この裏の店に迷い込むのは、己の欲望に溺れた愚者か、正義の皮を被った傲慢な怪物ばかり。
どれもこれも、指先ひとつで灰に変える価値しかないゴミ屑ばかりだった。
カラン。
店内に鐘の音が響いた。
前の客の時のように扉を叩き壊すような不快な音ではない。
しかしそれはあまりにも重く、乾いた、死臭の混じる音だった。
開いた扉の隙間から滑り込んできたのは、一人の小柄な影だった。
つぎはぎだらけのボロボロの革鎧。泥と固まった返り血で黒ずんだポンチョ。
フードの奥から覗いていたのは、十六歳にも満たない幼い少女の顔だった。
だが、その表情には年相応の幼さなど欠片も存在しない。
くぼんだ瞳は光を失い、まるで硝子玉のように冷たく死んだよう。
ただ一つ、胸の奥で燃え盛る暗火のような「激しい執念」だけが、彼女を動かす原動力となっている。
「いらっしゃい」
リラは少女を見つめる。
少女の名はルチア。
かつて緑豊かな小国で親の愛を受けて育った普通の少女。
三年前、隣国の魔導軍団によって国は焼き払われ、目の前で両親と幼い弟を惨殺された。
それ以来、彼女はただ仇を屠るためだけに死線を潜り抜け、己の体を暗殺術の道具へと作り変えてきた「殺し屋」だった。
ルチアは警戒心を露わにしながら、カツン、カツンと足音を忍ばせて店内に足を踏み入れた。
その右足は微かに引きずられている。
古傷が痛むのだろう。
「……ここが、死の淵で見つかるという『影の店』か」
ルチアの声はガラガラに掠れていた。
何日もまともな水すら飲んでいないのだろう。
彼女はカウンターの前に立ち、見上げるようにリラを見つめた。
その眼差しには恐怖も敬意もなく、ただ焦燥と乾きだけが宿っていた。
「まあ酷い惨状ね」
リラは肘をつき、黒いレースの手袋を嵌めた指先で鼻元を覆った。
「血と泥と……硝煙の匂い。女の子が纏うには、少々風情に欠ける匂いだわ。汚れるから、あまり調度品に触れないで頂戴」
冷酷極まりないリラの言葉にも、ルチアの表情はピクリとも動かなかった。
彼女は無言でポンチョの懐に手を突っ込むと、重そうな革袋をカウンターの上に放り投げた。
ジャリッ、と鈍い音が響く。
袋の口が開き、中から転がり出たのは、大量の金貨……ではなく、切り落とされた人間の指、耳、そして高級な紋章が刻まれた貴金属の数々。
どれも仇である魔導軍団の幹部たちから奪い取った「戦利品」だった。
「対価なら、ここにある」
ルチアは殺気立った声で言い放った。
「私の家族を殺し、国を焼いた魔導師どもは……残り三人。将軍と、その側近たちだ。だが奴らは城の最奥に引きこもり、強力な結界と魔力障壁で身を守っている。私の毒や刃では、届かない」
ルチアは身を乗り出し、カウンターの木板に泥だらけの手を叩きつけた。
「魔女。私に……どんな強力な結界でも突き破り、奴らを骨まで溶かす『絶対の呪毒』を頂戴。仇を全員、苦しめて殺せるなら……私の命も、魂も、どうなったっていい!」
彼女の吐息からは、強烈な憎悪の匂いがした。
「己の命すらどうなってもいい」という言葉に、嘘は一切ないようだ。
彼女の人生は三年前のあの日、家族が殺された瞬間に止まっているのだ。
残された肉体は、仇を道連れにするための単なる道具に過ぎない。
リラは、散らばった生々しい戦利品を一瞥すると、ふっと冷たい笑みを漏らした。
「命も魂もどうなったっていい、ねえ。使い古された、安っぽい台詞だわ。……第一条の適用。当店では『嘘』はつかないことになっているけれど、今の言葉には偽りはないようね。心底、自分の命価値をゼロだと思っているみたい」
リラはゆっくりと立ち上がった。
黒いドレスが優雅に揺れ、彼女はルチアの目の前へと歩み寄る。
「いいわ。まずは当店のルールに従ってもらいましょう。あなたの『本性』を映し出すお茶を召し上がっていただくわ」
リラは棚から、かわいいうさぎの耳がついた漆黒の陶器のカップを取り出した。
そして、空のポットから重々しく黒い液体を注ぎ入れた。
ドロリとした粘性を帯びたその液体からは、焦げた血と、冷たい鉄の匂いが立ち上っていた。
「お出しするのは『深淵の黒茶』。お飲みなさい」
ルチアは迷うことなくカップを掴み、一気に喉へと流し込んだ。
毒かもしれない、罠かもしれない。
そんな疑念すら、彼女の頭にはなかった。
仇を殺せる手段が得られるなら、猛毒であろうと喜んで飲み干す覚悟があったからだ。
重い液体が胃に落ちた瞬間。
ジジジ……ッ!
店内の暖炉の紫色が激しく揺らめいた。
ルチアの全身がガタガタと震えだし、彼女は膝から床へと崩れ落ちた。
「くっ……あ……っ!?」
ルチアは胸を掻きむしった。
胃の腑が焼き切れるような熱さと、脳を激しく揺さぶる「記憶の奔流」が彼女を襲う。
だが、前の客である聖騎士ガイゼルの時とは、流れるものが根本的に違っていた。
ガイゼルの体に流れ込んだのは「他者に与えた激痛と惨劇」だった。
しかし、ルチアの体に溢れ出したのは彼女自身の胸の奥深くに封印されていた、眩しいほどの『愛』の記憶だった。
『ルチア、お前は我が家の自慢の娘だ』
『お姉ちゃん、見て! お花が咲いてるよ!』
『早くお帰り、ルチア。温かいスープができているわ』
暖かな陽光が差し込む小さな家。
木漏れ日の中で微笑む優しい父親。
美味しそうな料理を作る母親。
自分の後ろを無邪気に付いてくる幼い弟の笑顔。
鼻をくすぐるパンの焼きあがる匂い。抱きしめられた時の、父親の大きな手の温もり。
ルチアが仇への憎悪を燃やすために、必死で忘れようとしていた「優しかった日々」の記憶。
憎しみに心を染めなければ、人を殺す殺し屋などになれなかったから。
温かな記憶を思い出せば、孤独と寂しさに押し潰されて泣いてしまうから。
だから彼女は、愛の記憶の上に固い殻を被せ、ただの「復讐の道具」として生きてきたのだ。
「やめろ……やめろぉぉぉっ!」
ルチアは頭を抱え、床に額をこすりつけた。
落ちくぼんだ目から、枯れていたはずの涙が溢れ出す。
「思い出させないでくれ……! 頼むから……私に、あんな温かいものを思い出させないでくれ……っ! 辛いんだ!」
彼女の悲鳴は、あまりにも切なく、胸を刺すものだった。
リラは苦悶するルチアを、静かに見下ろしていた。
その漆黒の瞳に宿っていたのは、先ほどの聖騎士の時のような「冷酷な蔑み」ではなかった。
ルチアの胸の中にあるのは、狂おしいほどの激しい憎悪だ。
だが、その憎悪の根底にあるのは「死んだ家族への深すぎる愛」と、「世界に取り残された絶望的な孤独」だった。
彼女は、根っからの悪人ではない。
誰かを踏みにじることに快感を覚える怪物でもない。
ただ、愛するものを奪われ、壊れてしまっただけの哀しき被害者だった。
「……愚かな子」
リラは呟いた。
その声は氷のように冷たかったが、どこか深い愛情のようななにかを孕んでいた。
「復讐のために命を捨てる? 魂を売る? ……笑わせないで。あなたのその激しい怒りは、あなたがそれほどまでに深く愛されていた証拠でしょう。命を捨てるということは、あなたの中に残された『家族の愛の記憶』ごと、この世界から消し去るということよ」
「うるさい……うるさいっ!」
ルチアは血の涙を流しながら、リラを睨みつけた。
「愛なんて……温もりなんて、もうどこにもないんだ! 私の家族は骨も残らず焼かれた! 私の家も、村も、全部なくなったんだ! 私の中にしか……あの人たちの生きていた証はないんだよ!」
ルチアは爪が割れるほど強く、床の木板を引っかいた。
「だから……だから私には、復讐しか残っていないんだ! 仇を全員殺して、奴らの血で家族の墓を建てることしか、私には残されていないんだぁぁぁっ!」
少女の魂の叫びが、暗い店内に虚しく響き渡る。
静寂が降り立った。
暖炉の紫の炎が、静かに二人の影を壁に揺らめかせている。
リラはふっと息を吐き出すと、ゆっくりとカウンターの奥へと戻った。
そして、戸棚の最奥……黒いベルベットが敷かれた小箱から、一つの品物を取り出した。
それは、漆黒の金属で鍛えられた、歪な形の古い指輪だった。
装飾など一切ない。
ただ、不気味な黒い魔力がドクドクと脈打っている。
リラは指輪を、ルチアの前の床へと放り投げた。
コトン。
乾いた音が鳴る。
「これは……?」
ルチアは涙を拭い、床の指輪を見つめた。
「『誓約の黒環』よ」
リラはハイバックチェアに腰掛け、脚を組み直した。
「あなたが望むような『死に至る呪毒』なんて安直なものは出さないわ。……その指輪はね、装着した者の生命力を直接魔力へと変換し、あらゆる魔導障壁や結界を、魔法の効果によるものなら『無効化』する概念突破の道具よ。それがあれば、仇の将軍がどんな結界に引きこもっていようと、その首を容易く切り落とせるわ」
ルチアの瞳に、ギラリとした執念の光が戻った。
「それを……私にくれるのか?」
「タダで渡すわけがないでしょう。こちらも商売よ。……その指輪を使うには、相応の『対価』が必要となるわ」
リラは冷ややかな笑みを浮かべ、残酷な条件を突きつけた。
「これの対価、その指輪を嵌めている間……あなたの全身には、『骨が体内から砕け続けるような激痛』が、絶え間なく走り続けるわ。攻撃を繰り出すたび、息をするたび、肉体が千切れるような苦痛があなたを襲う。……死ぬことすら許されず、ただ激痛の中で剣を振り続けなければならない」
ルチアは息を呑んだ。
「そして……無事に仇を殺し終えたとしても、その激痛は一生消えないわ。あなたが死ぬその瞬間まで、永遠にね。……命を捨てて一瞬で楽になる毒を選ぶか、一生激痛に身を苛まれながら仇を殺すか。さあ、選びなさい」
それは、あまりにも酷毒な選択だった。
一瞬で自分もろとも消滅する毒の方が、どれほど楽か分からない。
一生消えない激痛を背負って生きるなど、生きながら地獄に堕ちるのと変わりない。
だが、ルチアの手は躊躇うことなく伸びた。
彼女は床の指輪を掴み取ると、自らの左手の薬指へと強く押し込んだ。
――チリッ!
指輪がルチアの指の肉に食い込み、黒い血が吹き出す。
次の瞬間、指輪から伸びた黒い線が、彼女の腕から全身の血管へと這い上がっていった。
「ぐっ……があぁぁぁぁぁぁっ!?」
ルチアは血吐くような悲鳴を上げた。
全身の骨が内部から万力で押し潰されるような、凄絶な激痛が彼女を襲う。
視界が真っ赤に染まり、歯が砕け散りそうなほど奥歯を噛み締め、彼女は床で身悶えた。
だがルチアは、指輪を外そうとはしなかった。
激痛の中で、彼女は血走った瞳を上げ、リラを真っ直ぐに見据えた。
「はぁっ……はぁっ……! 痛い……痛い……! でも……でも、生きている……! この痛みがあれば……私は、まだあいつらを殺せる……!」
ルチアは震える足で、ゆっくりと立ち上がった。
全身を激痛が苛み、一歩踏み出すごとに肉体が悲鳴を上げている。
だが、その瞳からは「死んだ光」が消え、修羅のような気迫と、微かな「生への執着」が宿っていた。
彼女は激痛に耐えながら、深々とリラに向かって頭を下げた。
「……ありがとう、魔女。私は……行く」
「勘違いしないで。私はあなたを救ったわけではないわ。単に商売をしただけ」
リラは興味なさそうに視線を外した。
「行きなさい」
ルチアは頷くと、引きずる足を動かし、店の扉へと向かった。
指輪が放つ黒い魔力が、彼女の体を包み込み、仇の結界を破る武器へと姿を変えていく。
カラン。
鐘の音が鳴り、扉が開かれた。
その向こうに広がるのは、彼女がこれから赴く、血と絶望の戦場だ。
だが、去り際、少女は一度だけ足を止め、小さな声で呟いた。
「……いつか、復讐が終わったら。……また、家族に会いたいな」
ルチアは返事を待つことなく、闇の中へと消えていった。
扉が静かに閉まり、店内に再び静寂が戻る。
「指輪の代金として……あなたの置いていった戦利品はいただくわ。一番綺麗で価値のない小さな銀の鈴、これを飾りましょうか」
リラはカウンターの上に残された戦利品の山から、ちっぽけな銀の鈴をつまみ上げた。
ゴミ屑はサッと燃やしてしまう。
いくつかの貴金属はガラクタ入れに投げ込んだ。
ルチアが故郷の村で、幼い弟と遊んでいた頃につけていたおもちゃの鈴。
泥に汚れていたが、指先で拭うと、綺麗な銀色の光を取り戻した。
チリン。
繊細で優しい音が店内に響く。
リラはハイバックチェアに深くもたれかかり、天井を仰ぎ見た。
「……バカな子」
彼女の口から漏れたのは、呆れと、ほんの少しの不機嫌そうな吐息だった。
「命を捨てて楽になろうとしていた癖に……本当は、生きたかったのね。家族との思い出を胸に抱いて、誰かに『おかえり』と言ってもらえる未来へ戻りたかったのよ」
リラは手に持った銀の鈴を、棚の最奥「害品展示コーナー」ではなく、小さなベルベットが敷かれた「保留の棚」へと静かに置いた。
そこは、絶望の淵に立ちながらも、魂の尊厳を捨てなかった客たちの品が置かれる場所だった。
「あの子は悪に落ちたけれど、魂まで腐ってはいなかったわ」
リラは漆黒の瞳を細め、誰もいない空間に向かってポツリと呟いた。
「一生の激痛を背負ってでも、生き延びる道を選んだ。……もし、あの子が奇跡的に仇を全員殺し尽くし、生きてその戦場を抜け出すことができたなら……」
リラは微かに口角を上げた。
「……表の私の店に行くといいわ。あちらなら、傷ついた体を癒す美味しいスープと、優しいお茶くらいは出してくれるでしょうからね」
暖炉の青紫の炎が、温かな黄金色の光を微かに混ぜ合わせながら、穏やかに揺れた。
「これであの子の世界の歪みが、うまく消えるといいわね」
ルチア、あの少女もまた世界の揺らぎとなりつつある。うまく復讐を終えたのなら、あの世界の闇も落ち着くことだろう。
リラ。
裁きを与える黒の魔女。
だが彼女の冷酷な裁定の裏には、己の過ちゆえに世界を見捨てきれない、一筋の影のような美学が宿っていた。
表のお店とは対象となる裏の片隅。
今夜も影の喫茶店は、深淵の闇を湛えてひっそりと佇んでいる。




