第1話 とある聖騎士長の闇
宵闇のさらに奥、すべての光が屈折して死に絶える「影の領域」。
商店街の路地裏にある空き家の影。
ひっそりと存在するその店は、表の穏やかな雰囲気とはまるで異なる異彩を放っていた。
退廃的な漆黒の木目調で統一された店内。
壁を飾るのは美しい絵画ではなく、過去にこの店を訪れ、その命や存在を「刈り取られた」者たちの無残な遺品や武器、干からびた標本たち。
この店にはテーブルと椅子はなく、ただ広い店内に暖炉がある。
そしてその奥にはカウンター。
暖炉の中で燃え盛るのは、温かな黄金の炎ではない。
見る者の心を狂わせる黒く輝く不吉な紫の炎。
その奥のカウンター。
高くそびえる漆黒のハイバックチェアに、優雅に脚を組んで腰掛ける一人の女性がいた。
黒の魔女、リラ。
つばの広い漆黒の帽子から覗く、夜の闇をそのまま溶かし込んだような濡れた黒髪。
白磁のように透き通る肌。
そして、すべての光を吸い込み、冷たく見下すような「漆黒の瞳」。
彼女は華奢な指先で、紫色の炎に照らされたワイングラスのような、漆黒の陶器を弄んでいた。
中に入っているのは紅茶ではない。
妖しく揺らめく、重厚な黒い液体。
客の「本性」が注がれる杯だ。
「……ふああ」
リラは可憐な口元を手で覆い、心底退屈そうにあくび噛み殺した。
「静かすぎるのも考えものね。表の私は今頃、くだらない人間どもの安っぽい傷を舐めて『救ってあげた』なんて自己満足に浸っているのでしょうけれど……こちらには退屈なゴミすら流れてこないわ」
彼女の唇からこぼれる声は、高憐で、甘く、そして氷のように冷たい。
シャラン。
音がなり、漆黒の陶器のグラスが光輝いた。
「ふうん」
その時だった。
――ガツン! ガタガタガタッ!
繊細な鐘の音などではない。
扉が暴力的に叩き壊されんばかりの音を立てて開き、重厚な鎧の擦れ合う不快な金属音が店内に響き渡った。
「ここか……! 次元の隙間に隠れ潜む、忌々しい魔女の巣窟とは!」
踏み込んできたのは、一人の男だった。
白銀に輝く完璧な全身甲冑。
背中には純白の外套。
その胸元には、太陽を模した大聖国の聖印が眩しく輝いている。
三十代半ばほどの筋骨隆々とした男。
研ぎ澄まされた剣気と、他者を圧殺するような圧倒的な「威圧感」を全身から放っていた。
彼女にとって、この裏の店を訪れる客などはみな、自分を退屈させないための余興か、あるいは処分されるべき汚物に過ぎなかった。
リラはグラスをそっと置くと、男を見つめた。
彼女の瞳には男の詳細が見えていた。
男の名は、ガイゼル。
異世界において「神の代行者」と恐れられ、数々の戦場で勝利を収めてきた大聖国の聖騎士長であった。
ガイゼルは遠慮なく踏み込み、周囲の不吉な装飾を一瞥すると、酷く汚いものを見るような目で吐き捨てた。
「酷い惨状だな。悪臭が鼻につく。……貴様が、この異空間を支配する魔女か」
リラは組んでいた脚をゆっくりと組み替えた。
スリットの入った漆黒のドレスから、白くしなやかな脚が覗く。
彼女はガイゼルの怒号などまるで意に介さず、鼻でくすりと笑った。
「あら。挨拶もなしに踏み込んできて、開口一番に暴言とは……これだから『正義』を背負った野蛮人は困るのよ」
リラは冷ややかな漆黒の瞳でガイゼルを見下ろした。
その高慢な眼差しは、聖騎士長たるガイゼルの自尊心を激しく逆なでした。
「口を慎め、魔女め! 俺は大聖国が誇る最高戦力、聖騎士長ガイゼルだ! 世界を導く光の使者に対して、その態度は何だ!」
「光の使者? ふふ、笑わせないで」
リラは顎を微かに上げ、口角を妖しく吊り上げた。
「ただの鉄くずを着込んだ豚が、私の店で鳴き叫んでいるようにしか見えないのだけれど? ……まあいいわ。ここに迷い込んだということは、相応の『望み』があってのことでしょう。言ってみなさいな。ただし、私の退屈を紛らわせられるような面白い話でなければ、その首を跳ねて暖炉の薪にしてあげるけれど」
「貴様……ッ!」
ガイゼルは額に青筋を立て、腰の聖剣の柄に手をかけた。
だが、この店を包む絶対的な不可視の圧力を感じ取ったのか、辛うじて剣を抜くのを思いとどまった。
彼は大きく胸を張り、傲慢な笑みを浮かべて言い放った。
「いいだろう。貴様のような邪悪な魔女にも、我が『偉大なる使命』に協力する栄誉を与えてやる! 俺は、この世界からすべての『悪』を根絶やしにするための、絶対的な力を求めに来たのだ!」
「絶対的な力、ねえ……」
リラは頬杖をつき、指先でテーブルをトントンと叩いた。
「具体的に、何が欲しいのかしら? 壊滅的な魔法? 決して折れない剣? それとも……他人の心を意のままに操る呪いかしら?」
「神聖なる俺に向かって『呪い』などと不敬な! 俺が欲しいのは、世界を『完璧な善なるもの』へと導く奇跡の力だ!」
ガイゼルは心底から己の正義を信じ切った瞳で、熱っぽく語り始めた。
「いいか、魔女! この世が争いに満ちているのは、不完全で汚らわしい存在がのさばっているからだ! 」
リラは呆れた顔でただ聞いている。
ガイゼルは気にもせず話し続けた。
「異端の教えを信じる者、邪悪な魔族、神の教えに従わぬ愚民ども……奴らはすべて『悪』だ! 俺はこれまでも、大聖国の敵となる村を焼き、異端者を一人残らず処刑してきた! だが、まだ足りん!」
ガイゼルは力強く拳を握りしめた。
彼の顔は林檎のように赤い。
「世界にはまだ、俺の正義に従わぬゴミどもが溢れている! だからこそ! 俺に! 一瞬で広大な領土を浄化し、すべての悪人を灰に変える神聖な力を与えろ! それさえあれば、俺は世界を完全な平和へと導く『唯一無二の救世主』となれるのだ!」
ガイゼルの言葉には、一片の迷いもなかった。
彼の方は大きく動き、その呼吸は荒い。
彼は心から、自分が行ってきた殺戮と掠奪を「神聖な正義」だと信じ込んでいた。
リラはその話を聞きながら、漆黒の瞳を冷ややかに細めた。
「へえ……。自分に従わない者はすべて『悪』。だから全員焼き殺す。……実にシンプルで、酷く哀れな思考回路ね」
「何だと!?」
「聞こえなかったかしら? 哀れだと言ったのよ、正義の騎士様」
リラは嘲笑を浮かべ、しなやかな動作でハイバックチェアから立ち上がった。
漆黒のドレスがサラサラと音を立てた。
彼女は優雅な足取りで歩く。
「まあいいわ。せっかくの『お客様』だもの。まずは当店の名物……あなたの『本性』を映し出すお茶を召し上がっていただくわ」
リラは棚から、透き通ったクリスタルのロックグラス取り出した。
そして、何も入っていないクリスタルポットを取りだし、透明な液体を注ぎ入れたような素振りをする。
トクトクと音を立てて満たされたのは、色も香りもない、まるでただの水のような液体だった。
「あなたに出しするのは、『清廉なる無色の紅茶』よ。さあ、お飲みなさい」
グラスは魔法で空を滑り、ガイゼルの前に届く。
ガイゼルはグラスを見下ろし、鼻で笑った。
「なんだこれは? ただの水ではないか。毒でも仕込んでいるのではないだろうな?」
「ここにはルールがあるのよ。第一条……『嘘』はつかない。それは毒などではないわ。あなたの美しい正義の心に相応しい、何色にも染まっていない『純粋な紅茶』よ。……それとも、自称・救世主様は、魔女が出したお茶一杯飲む度量すら持ち合わせていらっしゃらないの?」
挑発的なリラの言葉に、ガイゼルの自尊心が跳ね上がった。
「ハッ! くだらん! 俺の神聖な体が、このような余興で害されるはずがあろうか!」
ガイゼルは激しくカップを掴むと、一気にその液体を飲み干した。
ーー次の瞬間。
ジジジ……ッ!
店内の暖炉の紫色の炎が激しく跳ね上がり、ガイゼルが着ていた白銀の甲冑から、黒い煤のような煙が立ち上った。
「なっ……何だ、これは……ガハッ!?」
ガイゼルは突如、胸を抑えてその場に膝をついた。
彼の脳裏に、そして肉体に破滅的な衝撃波が雪崩れ込んできた。
それは、彼が「正義」の名のもとに切り捨ててきた、無数の犠牲者たちの波だった。
『助けて! 私たちは何もしていない!』
『お許しください、聖騎士様!』
『我が子だけは……この子だけは助けてくれ!』
焼き払われた村々の悲鳴。
炎に包まれながら肌が焼け焦げる激痛。
首を跳ね飛ばされた時の断末魔。
母親の目の前で我が子を突き刺した時の、絶望の叫び。
彼が「悪」と断定して抹殺してきた数千、数万の人間たちの「生身の痛みと恐怖」。
それが今彼自身の神経に直接流し込まれていたのだ。
「ぐああああああっ! い、痛い! 熱い! なんだこれはぁぁぁっ!?」
ガイゼルは急に倒れ込み、床を転がり回った。
彼の体が、神聖な白銀の甲冑が、彼の体内で蠢く黒い怨念によってミシミシと悲鳴を上げた。
肉が削ぎ落とされるような激痛。
骨が砕ける衝撃。
呼吸ができない苦しみ。
それらが一秒間に何百回と彼の全身を襲う。
床で苦悶の表情を浮かべ、泣き叫ぶガイゼルをリラは上から見下ろしていた。
その表情には、同情も、不快感すらもない。
ただ、ゴミ箱の中身を観察するような酷く冷酷な微笑みが浮かんでいた。
「ふふ……いい声で鳴くじゃない。それが、あなたが与えてきた『正義』の味よ。どう? 美味しいかしら?」
「ひっ……ひぐっ! やめろ……やめろぉぉぉっ!」
ガイゼルは血反吐を吐きながら、必死にリラを見上げた。
「魔女め……俺に、何の呪いをかけた……!? 毒か! 悪霊の呪いか! 俺の精神を蝕む幻術か!?」
「呪い? 違うわよ、言ったでしょう」
リラは頬に手を当て、楽しそうに目を細めた。
「それはあなたが飲み干した、あなた自身の『実績』よ。そのお茶はね、あなたがこれまでに他者へ与えてきた痛みを、そのままあなた自身の肉体にフィードバックさせる魔法の液体。……あなたが正しく、清らかな行いをしてきたのなら、痛みを与えることがなかったのなら、そのお茶は極上の甘露となったはずだわ。あなたは正義の使者? どうかしらね。そこまで体が痛むということは……そういうことでしょう?」
「ふざけるな……! 戯言をぉぉぉっ!」
ガイゼルは血走った目で叫んだ。
「俺は……俺は正義だ! あいつらは神の教えに従わなかった悪だ! 悪が苦しむのは当然のこと! 俺が奴らを殺したのは、世界を美しくするための必要な犠牲だ! 俺は間違っていない! 一切、間違っていないのだぁぁぁっ!」
激痛にのた打ち回りながらも、ガイゼルの瞳から「正義という名の傲慢」は破片ほども消えていなかった。
彼は、自分が殺してきた人々が「自分と同じ血の通った人間」であり、痛みを感じる存在であることを理解してもなお、自分の正義を疑うことを拒絶した。
彼にとって、他人の痛みなどどうでもよかったのだ。
重要なのは「自分が正義のヒーローであること」と「自分に従わない者を踏みつぶす快感」だけだった。
彼以外、全ては悪であるのだ。
改心。
反省。
贖罪。
そんな概念は、彼の脳のどこを探しても存在しなかった。
彼は他者の痛みを理解する能力が欠落した、正義の皮を被った「真性の狂人」だったのだ。
リラの笑みが、ふっと消えた。
彼女の漆黒の瞳から、最後のお遊びの光すら失われ、完全な「絶対零度」の殺意へと変わる。
「……つまらないわね」
リラの冷ややかな声が、ガイゼルの悲鳴をかき消した。
「少しは自分の犯した罪の重さに絶望し、見苦しく命乞いでもするかと思ったけれど……根っこから腐りきったゴミは、どれだけ痛みを叩き込んでもゴミのままなのね」
リラは優雅にカウンターから出て、倒れ伏すガイゼルのもとへ歩み寄った。
ハイヒールの鋭い踵が、床にカツン、カツンと冷たい音を立てる。
「ヒッ……や、やめろ……俺は聖騎士長だぞ! 俺を殺せば、神の天罰が……!」
「神? あなたのような醜悪な虫ケラを野放しにしている時点で、あなたの国の神とやらもお里が知れるわ」
リラは黒いドレスの裾を揺らし、倒れるガイゼルの頭部を、ハイヒールの爪先で酷く汚いゴミのように踏みつけた。
メリメリ。
甲冑の兜が悲鳴を上げる。
「がはっ……!? く、狂気だ……! 貴様のような悪魔、絶対に許さん……世界が……正義が俺を……!」
「正義、正義、正義……うっとうしいわね」
リラは冷たく見下ろしたまま、己の右手を人差し指と中指だけ立てて掲げた。
その指先に、黒く禍々しい、すべてを喰らい尽くす「虚無の炎」がポツリと灯る。
「言っておくけれど、私はあなたを『悪だから』殺すのではないわよ? そんなくだらない正義ごっこは、もうひとりの私にでも任せておけばいい」
リラは酷く高慢に、美しく微笑んだ。
「私があなたを消去するのは……あなたが私を『酷く退屈させたから』よ」
「な……っ!?」
「私の店を汚し、不快な叫び声を上げ、その上何の面白みもない固定観念に固執する。……生きている価値すらない、出来損ないの害虫。それが今のあなたよ、ガイゼル」
リラが指先を静かに振り下ろした。
パチン。
小さな音が響いた。
次の瞬間、ガイゼルの体から、一切の悲鳴が消え去った。
指先から灯った黒い虚無の炎が、瞬く間にガイゼルの全身を包み込んだ。
それは熱すら持たない、存在そのものを消し去るかのような絶対の消滅。
「…!?」
ガイゼルは声にはならない口を開いて、何かを話そうとしていた。
慌てる彼の手が、見る見るうちに黒い粒子となって崩れていく。
腕。
脚。
胴体。
彼が誇りとしていた白銀の甲冑ごと、世界から存在を抹消されていく。
彼が積み上げてきた地位も、功績も、正義の誇りも、殺してきた人々の怨念すら。
すべてがリラの指先ひとつで、何の意味も持たない「無」へと還元されていく。
「さようなら、可哀想で不快な聖騎士様。次元の塵となって、永遠に漂いなさい」
リラは一度も目を合わせることなく、背を向けた。
数秒後。
暖炉の青紫の光の中に、一筋の黒い煙が吸い込まれて消えた。
後に残されたのは、静寂。
そしてガイゼルが最後まで腰に差していた、黄金の装飾が施された一振りの聖剣。
持ち主を失った剣は、乾いた音を立てて床に転がっていた。
リラはため息をつき、指先で黒髪を払った。
「はあ……無駄に力だけは強い豚だったわね。掃除の手間が増えたわ」
リラは足元に転がる聖剣をつま先で軽く突くと、小さな溜め息をつきながら手を一振振った。
聖剣はフワリと宙に浮き、店の壁際に置かれた「害品展示コーナー」の棚へと滑り込んだ。
「今日も世界の歪みがひとつ消えたわ」
そこには、過去にこの店を訪れ、リラによって存在を刈り取られた「自覚なき悪人たち」の遺品が整然と並んでいた。
国を売った大臣の首飾り。
人体実験を繰り返した狂気の魔導士の杖。
そして今回加わった、虐殺を正義と信じた聖騎士の剣。
「さて……」
リラは再びハイバックチェアへと戻り、深く腰掛けた。
美しく組まれた脚、漆黒のドレス、そしてすべてを見下す高慢な笑み。
彼女は残された誰もいなくなった空のクリスタルグラスを見つめ、酷く退屈そうに呟いた。
「次はもう少し……私を楽しませてくれる『毒』が来ると良いのだけれど」
暖炉の紫の炎が、嘲笑うようにパチリと音を立てて弾けた。
この店は裁きすら与えず切り捨てる漆黒の影。
黒の魔女リラは、今夜も絶望の淵から流れてくる「退屈しのぎの餌」を、高貴に、そして残酷に待ち続けている。




