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第七話 観察

 総務部の朝は、危機管理室より少しだけ早く動き出す気がする、と小夜は思っている。


 実際に始業時刻が違うわけではない。ただ、誰かが席に着いたと思ったらもう電話が鳴っていて、メールの返信が飛び交い、紙の書類とチャットの通知が同時に積み上がっていく。静かに見えて、止まっている人がいない。


 配属されたばかりの頃は、その速さにただ圧倒されていた。今も余裕があるわけではないが、少なくとも誰がどういうふうに仕事を回しているのか、少しずつ見えるようにはなってきた。


 相沢は、その中心にいる。


 声を荒げることはない。無駄なことも言わない。誰かを露骨に褒めることも、必要以上に庇うこともない。けれど、どこで何が詰まっているのかはたいてい把握していて、気づいたときにはもう手が打たれている。


 すごい、のだと思う。

 思うけれど、近くで働きやすいかと言われると、少し困る。


「柿谷さん」


 呼ばれて顔を上げると、三浦が自席からこちらを見ていた。


「この前の確認フォーム、危機管理室から戻ってきた版、見た?」

「まだです」

「じゃあ先に見ておいて。午後の定例で使うかもしれない」

「分かりました」


 小夜は共有フォルダを開き、該当ファイルを探した。再発防止メモの別紙フォーム。運用開始前に確認者が自分の担当範囲と確認項目を回答する形式にしたい、という話は先日の定例で出ていた。


 ファイルを開くと、前回見た版よりずっと整理されている。質問項目は必要最低限で、けれど曖昧さが残らないように作られていた。誰が確認責任を持つのか、どの範囲を見たのか、例外があった場合はどこへエスカレーションするのか。答える側の負担は軽くないが、少なくとも「読んだつもり」で流せる作りではない。


「これ、篠宮さんが直したんですか」


 思わず口にすると、三浦が肩をすくめた。


「たぶんベースはそう。相沢さんもかなり手入れてると思うけど」

「へえ……」

「何」

「いえ、なんか」

「なんか?」

「ちゃんと噛み合ってるんだなって」


 三浦は一瞬だけ目を細め、それから小さく笑った。


「仕事はね」

「仕事“は”って言いました?」

「言ってない」


 絶対に言ったと思ったが、三浦はそれ以上何も言わなかった。代わりに、自分の画面へ視線を戻す。その横顔は、少しだけ面白がっているようにも見える。


 小夜はもう一度フォームに目を落とした。


 危機管理室の篠宮澪。

 総務部の相沢。


 最初にその二人を意識したのは、たぶん配属されて間もない頃だった。会議で名前が並ぶことが多かったから、というだけではない。話し方が少し変だったのだ。


 仲がいい、というのとは違う。

 むしろぶつかっていることの方が多い。


 なのに、話が止まらない。


 相沢は基本的に、必要なことしか言わない。相手が誰であってもそうだ。説明は足りるだけ、指示は短く、感情は表に出さない。だから、会話というより処理に近いことが多い。


 けれど篠宮相手だと、処理だけでは終わらない。

 言葉数が増えるわけではないのに、やり取りの密度が違う。相手が何を気にしているのか、どこで引っかかるのか、最初から分かっているみたいに話が進む。


 それが不思議だった。


 付き合っているのかと思ったことも、一度や二度ではない。

 でも、そういう空気とも少し違う気がする。


 恋人というより、もっと面倒で、もっと仕事に近い何か。

 うまく言えないが、二人の間には周りが簡単には入れない線がある。


「柿谷さん」


 今度は別の席から呼ばれ、慌てて返事をする。午前中はそのまま細かい確認作業と問い合わせ対応で過ぎていった。総務部の仕事は、目立たないのに切れ目がない。誰かが困る前に整えておくことが多いから、終わった実感より次の作業の方が先に来る。


 昼休み、社員食堂でトレーを持って席を探していると、高橋が一人で座っているのが見えた。危機管理室の高橋。何度か会議で顔を合わせているし、総務部にもよく来るから、小夜にとってはもう見慣れた相手だ。


「ここ、いいですか」

「どうぞ」


 向かいに座ると、高橋は味噌汁の椀を持ったまま少しだけ笑った。


「総務も食堂使うんだ」

「使いますよ」

「なんとなく、みんな席で食べてそうだった」

「それは偏見です」

「そうかも」


 高橋は穏やかだが、どこまで本気でどこから冗談なのか分かりにくい。小夜は箸を割りながら、少しだけ迷ってから口を開いた。


「高橋さんって、篠宮さんと長いんですか」

「長いってほどでもないけど、危機管理室立ち上げから一緒」

「じゃあ、結構見てるんですね」

「何を」

「……いろいろです」


 高橋はすぐには答えなかった。白身魚を一口食べてから、水を飲む。


「総務の人って、みんなそういう聞き方するの?」

「しません」

「じゃあ君だけか」

「たぶん」


 少しだけ笑われた気がして、小夜はむっとした。


「別に変な意味じゃないです。ただ、篠宮さんって、仕事できるのに時々すごく分かりやすいじゃないですか」

「分かりやすい?」

「顔に出るっていうか」

「そうかな」

「出ますよ。少なくとも相沢さん相手だと」


 言ってから、少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。けれど高橋は驚いた様子もなく、ただ「へえ」とだけ言った。


「総務からはそう見えるんだ」

「見えます」

「相沢は?」

「相沢さんは……分かりにくいです。でも、分かりにくいなりに違う気がします」

「例えば」

「例えば、篠宮さんが言ったことはちゃんと拾う、とか」

「それは仕事だからじゃない?」

「他の人より、です」


 高橋はそこでようやく少しだけ目を細めた。


「よく見てるね」

「見えますよ、あれは」

「“あれ”」

「なんていうか、普通の同僚って感じじゃないです」

「付き合ってるとか?」

「えっ」


 小夜は思わず箸を止めた。高橋の方からその言葉が出るとは思っていなかった。


「いや、違うなら違うでいいんだけど」

「分かりません。でも、そうじゃないとしても、なんか近いです」

「近い」

「うまく言えないですけど。仲がいいっていうより、互いのこと分かりすぎてる感じで」

「なるほど」


 高橋はそれ以上何も言わなかった。否定もしないし、肯定もしない。ただ、少しだけ面白そうにしている。


「高橋さんはどう思ってるんですか」

「何を」

「その二人」

「どうだろうね」

「ずるいです」

「そう?」


 小夜は納得がいかず、味噌汁を一口飲んだ。ぬるくなりかけている。


「でも、篠宮さんって、相沢さんには遠慮ないですよね」

「遠慮がない、か」

「他の人にはもう少し線を引いてる感じがするのに」

「それはあるかもね」

「ありますよね」

「君、ほんとによく見てるな」


 褒められているのか、からかわれているのか分からない。小夜が口を尖らせると、高橋は小さく笑った。


「まあ、観察は自由だから」

「観察」

「仕事でも人間関係でも、見えてるものを見えてるって思うのは大事」

「それ、肯定してます?」

「否定はしてない」


 結局、何も教えてくれない。

 けれど完全に外れているとも言われなかった。


 午後の定例レビューは、いつも通り淡々と始まった。危機管理室からは篠宮と高橋、総務部からは相沢と三浦、それに小夜も同席する。確認フォームの項目調整と、運用開始前の周知手順の最終確認。


 篠宮は資料を開きながら、必要なことだけを端的に説明した。声は落ち着いている。先週よりずっと平静に見える。少なくとも表面上は。


「三項目目ですが」


 相沢が画面を見たまま言う。


「“確認責任者が実施状況を把握していること”だと、責任と実施が混ざって見えます。ここは分けた方がいい」

「把握だけだと弱くないですか」

「弱いなら、確認方法を別欄にする」

「別欄を増やすと回答負荷が上がります」

「上がっても必要なら入れるべきです」

「必要性の線引きが曖昧です」

「曖昧なら定義する」


 小夜は画面を見ながら、内心で少しだけ笑ってしまった。


 やっぱりこの二人は変だ。


 言い合っているようで、噛み合っている。

 噛み合っているのに、どこかぴりついている。


 三浦が横で小さく息をついたのが分かった。たぶん同じことを思っている。


「じゃあこうしましょう」


 篠宮が言った。


「三項目目は確認責任者の認識確認に絞る。実施状況の把握は、例外発生時のエスカレーション欄で拾う」

「それならいいです」

「回答時間は想定何分ですか」

「五分以内に収めたいです」

「なら自由記述は増やしすぎない方がいい」

「分かっています」

「本当に?」

「相沢さん」


 その呼びかけに、会議室の空気がほんの少しだけ揺れた気がした。


 篠宮はすぐに続ける。


「増やしすぎると回らないのは、先週から同じ認識です」

「確認です」

「確認なら、そう言ってください」

「言っています」

「今のは牽制に聞こえました」

「気のせいでは」

「そういうところです」


 三浦が咳払いをした。高橋は止めない。止める必要がないからだ。話はちゃんと前に進んでいる。


 小夜は視線を落とし、タブレットにメモを取りながら、口元だけで少し笑った。


 付き合っているのか、と聞かれたら分からない。

 でも、少なくとも普通ではない。


 会議が終わり、資料を片づけながら小夜はちらりと二人を見た。篠宮はタブレットを閉じ、相沢はPCの画面を確認している。目が合うわけでもない。特別なことを言うわけでもない。


 それでも、二人の間には何かがある。


 見えないまま、確かにそこにあるもの。

 名前がついていないだけで、もう十分に形になっているもの。


 観察しているのは自分だけではないのだろう、と小夜は思った。


 ただ、まだ誰も口にしないだけで。


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