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第六話 平熱

 終わったことにしよう、と澪は朝の通勤電車の中で三度目に思った。


 思ったところで、何かがきれいに片づくわけではない。分かっている。それでも、そう決めておかないと会社に着く前に息が詰まりそうだった。


 窓に映る自分の顔は、寝不足のせいで少しだけ輪郭が鈍い。吊り革を握る指先に力が入っているのを見て、澪は小さく息を吐いた。


 終わったことにする。


 あの夜のことも。

 矢吹常務に向けてしまった衝動も。

 そのあと相沢に言ったことも。


 勘違いだったのかもしれません、と口にしたときの自分の声を思い出す。あれは半分、本心だった。半分は、そういうことにしてしまいたかっただけだ。


 恋だと思った。

 少なくとも、そのときはそう思った。


 けれど今になって振り返ると、あれが何だったのか、自分でもうまく言えない。認められたかったのかもしれない。見てほしかったのかもしれない。遠い場所にいる人に、自分の手が届くのか確かめたかっただけなのかもしれない。


 どれも違う気がして、どれも少しずつ当たっている気もした。


 電車が減速し、車内アナウンスが流れる。澪は顔を上げ、ドアの上の路線図をぼんやり見た。会社の最寄り駅まで、あと二つ。


 今日は総務部との定例レビューが入っている。


 その事実を思い出しただけで、胃のあたりがわずかに重くなった。


 会いたくない、わけではない。

 会いたくないのなら、もっと簡単だった。


 平気な顔をしなければならないのが、しんどいのだ。


 相沢はたぶん、いつも通りにしている。

 あの人はそういう人だ。

 何もなかったみたいに、必要なことだけを言って、必要なことだけを進める。こちらが勝手に乱れていることなど、仕事の前では関係ないとでも言うように。


 それが腹立たしいのか、ありがたいのか、澪にはまだ分からなかった。


 駅に着き、人の流れに押されるようにホームへ降りる。改札を抜け、会社のビルへ向かう道はもうすっかり朝の顔をしていた。コンビニの前に立つ人、足早に横断歩道を渡る人、スマートフォンを見ながら歩く人。誰もが自分の一日を始めようとしている。


 澪もその中に紛れ込む。


 会社に着いてしまえば、考える暇は減る。

 減ってくれなければ困る。


 エレベーターを降り、危機管理室のフロアに入ると、すでに高橋が席についていた。ノートPCを開き、朝一番のメールを処理しているらしい。澪に気づくと、軽く視線だけを上げる。


「おはよう」

「おはようございます」


 自分の声が思ったより普通で、澪は少しだけ安心した。


 席に着き、PCを立ち上げる。未読メール、チャット通知、今日の会議予定。見慣れた画面が並ぶだけで、少しずつ呼吸が整っていく。


 仕事は裏切らない。

 少なくとも、手順を踏めば前に進む。


「篠宮さん」


 高橋が画面を見たまま声をかけてきた。


「はい」

「AI要約の運用条件、昨日法務から戻ってきたコメント反映しておいて。午前中に一回見たい」

「分かりました」

「あと、総務との定例、午後一」

「……はい」

「再発防止メモの正式運用前確認。相沢さんたちも来る」


 知っている。予定表にも入っていた。

 それでも人の口から改めて言われると、胸の奥が少しだけ固くなる。


「資料は昨日の版で足りますか」

「足りる。差分だけ持っていけばいい」

「分かりました」


 高橋はそこでようやく澪の方を見た。ほんの一瞬だけ、何かを測るような目だったが、すぐにいつもの温度に戻る。


「無理に詰めなくていいから、論点だけ整理して」

「はい」

「今日の目的は勝つことじゃなくて、運用に乗せること」

「分かってます」

「ならいい」


 その「ならいい」が、何もかも分かった上で言われている気がして、澪は少しだけ眉を寄せたくなった。だが高橋はそれ以上何も言わない。助け舟も出さないし、余計な気遣いもしない。


 その距離感に救われることもあるし、腹が立つこともある。


 午前中はコメント反映と資料整理であっという間に過ぎた。法務の指摘は細かいが妥当で、文言を一つ直すたびに責任の所在が少しずつ明確になる。誰が確認し、誰が承認し、どこまでをAI要約に任せ、どこからを人が見るのか。曖昧なままでは回らない。回らないものは、いずれ事故になる。


 そういう意味では、相沢の言っていたことは正しい。


 正しいから厄介なのだ、と澪は思う。


 昼休みを挟んで、定例レビューの時間が近づく。澪は資料を印刷するか迷って、結局タブレットだけ持っていくことにした。紙を持つと、手元の動揺まで見えそうな気がしたからだ。


 会議室へ向かう廊下は、冷房が少し強い。薄いカーペットの上を歩く足音が、自分のものだけやけに大きく聞こえる。


 ドアを開けると、相沢はもう来ていた。


 三浦もいる。ノートPCを開き、何か確認していたが、澪たちが入ると軽く会釈した。相沢は視線だけを上げる。


「お疲れさまです」

「お疲れさまです」


 それだけだ。


 何もない。

 何もなかったみたいに、会議は始まる。


 高橋が口火を切り、再発防止メモの正式運用前確認に入る。主語の整理、レビュー対象の範囲、ログ保存条件、対外説明前の承認フロー。論点は明確で、話は淡々と進んだ。


「この一文ですけど」


 澪は画面を見ながら言った。


「“関係部署において確認を行う”だと、誰が最終責任を持つのか曖昧です。少なくとも一次確認者は明記した方がいいと思います」


「同意です」


 相沢がすぐに返す。


「ただ、部署名まで固定すると運用変更時に差し替えが増える。役割名で置いた方がいい」

「役割名だと、現場が自分事として受け取りにくくなりませんか」

「本文に部署名を残しても、責任の実体にはならない」

「でも、今回の件って、現場が“誰かが見るだろう”で流したのが問題ですよね」

「だから本文は抽象化する」

「抽象化しすぎると、また誰の仕事でもなくなります」

「なら本文とは別に確認フォームをつければいい」


 澪は顔を上げた。


「確認フォーム」

「運用開始前に、確認者が自分の担当範囲と確認項目を回答する形にする。読んだだけで終わらせない」

「回答を残させるんですか」

「少なくとも、確認したことは残る。監査証跡にもなる」


 三浦が小さく頷く。高橋は黙って聞いている。


 澪は少し考えてから言った。


「回答だけ埋めて、中身を見ない人は出ます」

「出るだろうな」

「……でも、読了確認だけよりはましですね」

「そういうことです」

「フォームの項目設計次第では、確認の質もある程度担保できます」

「だったらなおさら、本文と切り分けた方がいい」

「分かりました。本文は役割名で、実運用はフォームで担保しましょう」

「その方がいい」


 あっさりと着地する。

 仕事としては、きれいすぎるくらいきれいに。


 会議は予定時間ぴったりで終わった。高橋は次の予定があると言って先に出ていき、三浦も「修正版まとめます」と言ってPCを抱えて退室する。澪はタブレットを閉じ、ケーブルをまとめるふりをして少しだけ動きを遅らせた。


 別に、二人きりになりたいわけではない。

 ただ、同じタイミングで立ち上がるのが妙に嫌だった。


「さっきの確認フォーム」


 相沢が先に口を開いた。


 澪は顔を上げる。


「項目案できたら、高橋さん経由で一回見せてください」

「分かりました」

「回答者の負担が重すぎると回らない」

「分かっています」

「今日中じゃなくていい」

「……そうですか」

「急がせると雑になる」


 それだけのことだ。

 業務上、何もおかしくない。


 なのに澪は、その一言にわずかに苛立った。


 気遣われたくない、と思う。

 いや、違う。気遣われること自体が嫌なのではない。気づかれているみたいなのが嫌なのだ。こちらが平気なふりをしていることも、平気ではないことも、どちらも見透かされている気がする。


「雑にはしません」

「そういう意味じゃない」

「どういう意味ですか」

「そのままの意味です」


 相沢は表情を変えない。


 澪は自分でも面倒な返しをしていると思った。分かっている。分かっているのに、引けない。


「……分かりました」


 それ以上言う気力もなく、澪はタブレットを抱えて会議室を出た。


 廊下の空気はさっきより冷たく感じた。危機管理室へ戻る途中、ガラス窓に映る自分の顔が少しだけ強張っているのが見える。みっともない、と澪は思う。


 戻ると、高橋がちょうど席でコーヒーを飲んでいた。


「どうだった」

「いつも通りです」

「ならいい」


 またそれだ。


 澪はPCを開きながら、少しだけ刺のある声で言った。


「何か言いたそうですね」

「別に」

「そうは見えませんけど」

「見えるなら、そうなんじゃない」


 高橋はカップを置いた。


「でも、今ここで言うことじゃない」

「……そうですか」

「仕事は進んだ?」

「進みました」

「じゃあ十分」


 それで会話は終わった。


 高橋は本当に、必要以上のことを言わない。澪が助かるぎりぎりのところで手を出さず、沈まないぎりぎりのところでだけ見ている。そういう先輩だ。


 午後は修正版の反映と、関係部署向けの説明文案の調整で過ぎていった。チャットが飛び、メールが返り、確認依頼が積み上がる。仕事をしている間だけは、頭の中が静かになる。


 夕方、窓の外の光が少し傾き始めた頃、通知音が鳴った。


 澪は反射的に画面を見る。


 差出人を見た瞬間、指先が止まった。


 矢吹常務秘書室。


 件名は簡潔だった。

 案件総括面談のお願い。


 本文も事務的で、来週のどこかで三十分ほど時間をもらえないか、というだけの内容だった。今回の一連の対応について、危機管理室としての所見も聞きたい、とある。文面に余計なものは何もない。誰が読んでも、まっとうな業務連絡だ。


 それなのに、澪の心拍だけが一拍遅れて跳ねた。


 喉が乾く。


 何を今さら、と思う。

 何も今さらではない。常務が案件総括をするのは当然だ。危機管理室にヒアリングが入るのもおかしくない。おかしくないのに、画面の文字が妙に近く見える。


 澪は一度、返信欄を開いた。


 承知いたしました。候補日時をいただけましたら調整いたします。


 そこまで打って、送信ボタンの上で指が止まる。


 何をためらっているのか、自分でも分からない。

 分からないまま、結局その文面で返信した。


 送信完了の表示が出る。


 その直後、別の通知が重なった。


 今度は共有チャットだった。

 相沢から、再発防止メモ修正版へのコメント。


 別紙フォームの回答項目、三つ目だけ表現を調整してください。確認責任と実施責任が混ざって見えます。本文側はこのままで問題ありません。


 短い。

 正確で、余計なものが一切ない。


 澪はその文面を見つめたまま、しばらく動けなかった。


 矢吹常務からの事務的な面談依頼。

 相沢からの事務的なレビューコメント。


 どちらも仕事だ。

 どちらも正しい。

 どちらにも、感情なんて書かれていない。


 それでも、自分の中では何一つ整理が終わっていないことだけが、はっきり分かった。


 終わったことにしたかっただけで、終わってはいなかった。


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