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第五・五話 小夜

 危機管理室との再発防止策すり合わせを終えて総務部のフロアに戻ったとき、三浦はようやく肩の力を抜いた。


 少人数での会議は人数が少ないぶん楽なようでいて、実際は逆だ。誰が何を言ったかが曖昧にならないし、相沢の指摘も、篠宮の返しも、どちらも逃げ場なく耳に残る。


 会議の内容自体は建設的だった。再発防止メモの主語を整理し、AI要約の抽出条件の責任範囲を分け、対外説明前のレビュー対象を絞る。やるべきことは明確になったし、総務部としても危機管理室としても、落としどころとしては悪くない。


 それでも、会議室を出たあとの空気は少し重かった。


「三浦」


 背後から呼ばれて、三浦は反射的に振り返った。


「はい」


「さっきの修正版、危機管理室から上がったら先にお前が見ろ。主語のぶれだけ拾えばいい」


 相沢は歩きながら言った。声はいつも通り低く、無駄がない。


「はい」

「拾えなかったら差し戻す」

「はい」

「返事しかできないのか」

「今のは返事以外に正解あります?」


 三浦がそう返すと、相沢は一瞬だけ眉を動かしたが、何も言わず自席へ向かった。


 いつも通りだ、と三浦は思う。


 少なくとも、見た目は。


 総務部のフロアは午後の光が少し傾き始めていて、島型のデスクの上には資料とノートPCとマグカップが雑然と並んでいた。電話の音は少ない。チャット通知の小さな電子音と、キーボードを叩く音だけが断続的に響いている。


 三浦が自席に戻ると、斜め向かいの席からおそるおそる声がかかった。


「あの、三浦さん」


 柿崎小夜だった。


 今年入ったばかりの新人で、まだ総務部の空気に完全には馴染みきっていない。だが、分からないことを分からないままにしない素直さがあって、三浦はそこをわりと好ましく思っていた。


「どうした」

「さっきの会議のメモ、私も確認した方がいいですか」

「いや、今はいい。先にこっちの差分表だけ見てくれる?」

「はい」


 小夜は素直に頷き、共有フォルダを開いた。だが、数秒後、画面を見たまま少しだけ言いにくそうに口を開く。


「……相沢さん、今日ちょっと厳しくないですか」


 三浦は思わず笑いそうになった。


「今日“ちょっと”で済むなら、だいぶ優しい見方してるな」

「いつも厳しいのは分かってます」

「分かってるのか」

「分かりますよ、それくらいは」


 小夜は少しだけむっとした顔をした。新人扱いされるのが不本意なのだろう。その反応が年相応で、三浦は少し肩の力が抜けた。


「でも、さっきはなんというか……厳しいっていうより、刺さる感じで」

「ああ」

「篠宮さんも、言い返してましたし」

「言い返すだろ、あの人は」

「そういうものなんですか」

「そういう人なんだよ」


 三浦は差分表を開きながら答えた。


 危機管理室の篠宮澪。新設部署の中でも、案件の整理と論点の切り分けがうまい。細かいところまでよく見ているし、見たものを見なかったことにしない。相沢と似ているところがある、と三浦は前から思っていた。だからこそ、ぶつかる時は妙に正面からぶつかる。


 小夜はしばらく黙っていたが、やがて遠慮がちに言った。


「相沢さんと篠宮さんって、どんな関係なんですか」


 三浦は手を止めた。


「どんなって」

「なんというか……会議で見てると、近いのか遠いのか分からなくて」


 その言い方が妙に的確で、三浦は少しだけ感心した。新人のくせに、見ているところはちゃんと見ている。


「難しいこと聞くなあ」

「すみません」

「いや、別に謝ることじゃないけど」


 三浦は椅子の背にもたれ、少し考えた。


「前よりは、だいぶこじれてる気はする」

「こじれてる」

「会議でのやり取り見てると、最近ちょっと険悪だろ」

「そうですか?」


 小夜はきょとんとした顔をした。


「私には、そうは見えませんでした」

「え」

「仲が悪いっていうより、ちゃんと信頼があるから言い合えてる感じで」

「信頼ねえ」

「だって、どうでもいい相手にあんなふうに言わなくないですか」

「それはまあ、そう」

「すごく仲がいい、は言いすぎかもしれないですけど……でも、近いですよね」


 三浦は返事をしなかった。


 近い。

 それはたぶん、間違っていない。


 ただ、近いから面倒なのだと、三浦は知っていた。


「……昔は、もう少し分かりやすかったんだけどな」


 ぽつりと漏らすと、小夜が目を瞬かせた。


「昔?」

「相沢さん」

「えっ」


 小夜は露骨に食いついた。分かりやすい。


「今の相沢さんしか知らないと想像つかないだろうけど、昔は今みたいに完成してなかったよ」

「完成って」

「今はもう、黙ってても怖いし、黙ってても正しい感じするだろ」

「はい……まあ……はい」

「昔はもっと落ち着きなかった」


 三浦は少し笑った。


「トラブル解決のスピードは昔から異常だったよ。誰より先に問題見つけて、誰より先に火元押さえて、誰より先に対処する。あれは昔から変わらない」

「すごいですね」

「すごいよ。でも本人は今みたいじゃなかった」

「どう違ったんですか」

「オドオドしてた」

「えっ」


 小夜の声が少し裏返った。


「いや、本人の前で言うなよ。たぶん否定するから」

「想像つかないです」

「だろうな。処理は速いのに、本人だけ落ち着いてない感じだった。言葉も今より多かったし、変なところで気を遣って空回りしてたし」

「……本当に同じ人ですか」

「同じ人だよ」


 三浦は苦笑した。


「今とは全然違う」

「何があったんですか」

「さあな」


 そこは本当に、三浦にも全部は分からない。異動もあったし、案件もいくつもあった。人が変わる理由なんて、一つではないのだろう。


「でも、篠宮さんはたぶん、今の相沢さんだけ見てるわけじゃない」


 言ってから、少し言いすぎたかと思った。だが小夜はただ静かに続きを待っている。


「昔のこと、知ってるんですか」

「知ってる、というか……まあ、見てた時期はあるんじゃないか」

「そうなんですね」

「だから余計に、今のやり取り見てると、仲悪くなっちゃってるし……って思う時はある」


 三浦は自分で言って、少しだけ苦笑した。説明になっているようで、なっていない。


 小夜はしばらく考え込むように画面を見つめ、それから小さく首を振った。


「でも私、やっぱり仲が悪いようには見えませんでした」

「まだ言う?」

「だって、本当にそう見えたので」


 小夜は真面目な顔で続けた。


「お互いに、相手が何を言いたいか分かってる感じがしました。だからぶつかっても、話が前に進んでたし」


「新人が変なところで強いな」

「すみません」

「褒めてる」

「そうなんですか」

「半分は」


 小夜は少しだけ安心したように笑った。


「私、まだ全然分からないですけど……信頼関係がないと、ああいう言い方ってできない気がします」

「信頼関係、ね」

「はい。すごく仲がいい、って言うと違うのかもしれないですけど。でも、すごく近い人たちなんだろうなって」


 三浦はその言葉を、すぐには否定できなかった。


 近いのだと思う。

 近くて、だからこそ面倒で、だからこそ見ていてしんどい。


 相沢は篠宮に対して、他の部署相手より明らかに言葉を選ばない時がある。甘いわけではない。むしろ逆だ。だが、どうでもいい相手に向ける種類の厳しさでもない。


 篠宮の方も同じだ。相沢の指摘には腹を立てるくせに、聞くべきところは聞く。突っぱねるだけならもっと簡単なのに、そうしない。


 それを仲がいいと呼ぶのかは、三浦には分からなかった。


「まあ、少なくとも」


 三浦が言いかけたところで、背後から低い声が落ちた。


「少なくとも、何だ」


 二人そろって肩を跳ねさせる。


 いつの間に戻ってきたのか、相沢がすぐ後ろに立っていた。缶コーヒーはもう持っていない。表情はいつも通りで、そこから何かを読むのは難しい。


「いえ、何でも」

「何でもない顔じゃないだろ」

「新人教育です」

「雑だな」


 相沢はそう言って、三浦のモニターを一瞥した。


「危機管理室から修正版、上がってる。見ろ」

「もうですか」

「もうだ」

「早いですね」

「向こうも仕事してるからな」


 その言い方は平坦だった。だが三浦は、ほんの少しだけ違和感を覚えた。機嫌が悪いわけではない。苛立っているわけでもない。ただ、いつもより言葉が短い。余白を切り落としたみたいに、必要なことしか言わない。


 小夜もそれを感じたのか、背筋を伸ばして画面に向き直っている。


「小夜」

「は、はい」

「差分確認、三浦の横で見て覚えろ。次から自分でも拾えるようにしろ」

「はい」

「分からなかったら聞け」

「はい」

「返事は一回でいい」

「……はい」


 三浦は思わず視線を逸らした。新人相手にいつも通りの相沢だ。だが小夜は少しだけ青ざめている。気の毒だが、これも総務部の通過儀礼みたいなものだった。


 相沢はそれ以上何も言わず、自席に戻った。


 椅子に座り、危機管理室から上がってきた修正版メモを開く。数秒、画面を見つめたまま動かない。その沈黙が妙に長く感じられて、三浦は無意識にそちらを見た。


 相沢の右手が、キーボードの上で一瞬止まる。


 ほんの一瞬だった。


 だが、普段の相沢なら見せない種類の間だった。


 次の瞬間には、何事もなかったようにキーを打ち始める。主語の整理、責任範囲の明確化、レビュー条件の文言修正。コメントは簡潔で、正確で、余計な感情が一切ない。いつもの相沢だ。誰が見てもそう思うだろう。


 それでも三浦は、さっきの一瞬を見てしまった。


「三浦さん」


 小声で小夜が呼ぶ。


「ん?」

「今の、もしかして」

「何が」

「……いえ」


 小夜は言いかけてやめた。新人なりに、触れない方がいいものを学び始めているのかもしれない。


 三浦は小さく息を吐き、修正版メモの差分を開いた。


 篠宮の文面は、会議のあとに急いで整えたのが分かる仕上がりだった。必要なところは引かず、引くべきところだけ引いている。相沢の指摘を飲み込んだ上で、それでも危機管理室の立場が消えないように踏ん張っている。


 ああ、と思う。


 こういうところなのだ。

 相沢が放っておけないのも、篠宮が引かないのも。


「ここ」


 三浦は画面を指した。


「この一文、主語は直ってるけど、責任の置き方がまだ少し曖昧」

「はい」

「でも前よりずっといい。会議の意図は拾えてる」

「篠宮さん、すごいですね」

「すごいよ」

「相沢さんも」

「まあな」


 小夜は少しだけ迷ってから、また小さく言った。


「やっぱり、仲が悪い人たちには見えないです」


 三浦は苦笑した。


「お前、それ好きだな」

「気になるので」

「新人のくせに面倒なところ見てるな」

「総務向きってことですか」

「どうだろうな」


 そう返しながら、三浦はちらりと相沢の方を見た。


 相沢は画面を見たまま、淡々とレビューコメントを打っている。表情は変わらない。姿勢も崩れない。誰が見ても、いつもの相沢だ。


 けれど三浦には分かる。


 今日の相沢は、たぶん少しだけ静かすぎる。


 会議のあとからずっと、必要なことしか言っていない。余計な一言がない。普段だって多弁な人ではないが、それでも今日は、削れるものを全部削ったみたいな話し方をしている。


 それが何を意味するのか、三浦には分からない。

 分からないが、無傷ではないのだろうとは思った。


 しばらくして、相沢がレビューコメントの送信を終える。画面を閉じ、短く言った。


「三浦、確認終わったら回付しろ」

「はい」

「小夜」

「はい」

「今日はここまででいい。残りは明日やれ」

「はい」


 小夜は素直に頷いたが、相沢が席を立って給湯スペースの方へ向かうのを見送ってから、そっと三浦に顔を寄せた。


「三浦さん」

「何」

「今の相沢さん、ちょっとだけ」

「ちょっとだけ?」

「……さみしそうに見えました」


 三浦は思わず黙った。


 新人のくせに、と思う。

 いや、新人だからこそ、余計な知識なしにそう見えるのかもしれない。


「それ、本人には言うなよ」

「言いませんよ」

「絶対怒るから」

「そこは想像つきます」


 小夜は小さく笑った。


 三浦もつられて少しだけ笑う。


 総務部の夕方は、いつも通り静かに過ぎていく。チャット通知が鳴り、誰かがコピー機の方へ歩き、窓の外ではビルの灯りが少しずつ増えていく。


 何かが大きく変わったようには見えない。

 けれど、見えないところで少しずつずれていくものがあるのだと、三浦は知っていた。


 そしてたぶん、小夜も今日、その入口くらいには立ったのだろう。


「帰る準備しとけ」


 戻ってきた相沢が、いつも通りの声で言う。


「明日も朝から詰まってる」


 その言葉に、三浦は「はい」と返し、小夜も慌てて頷いた。


 明日も仕事がある。

 総務部はたぶん、明日もいつも通り回る。


 その“いつも通り”の中に、言葉にならないものが混じっていることを、口にする人はいなかった。


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