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第五話 勘違い

 あのキスから三日、篠宮澪は自分でも驚くほど平然と仕事をしていた。


 少なくとも、外から見ればそう見えるはずだった。


 朝一番で案件ボードを開き、前日の対応ログを確認し、先方打ち合わせ後の追加論点を整理する。支店から上がってきた補足報告をAI要約にかけ、その出力を原文と照合し、危険な言い換えだけを拾って修正する。営業本部から回ってきた返答案に赤を入れ、法務確認済みの文言と突き合わせる。


 やることはいくらでもあった。

 忙しさは、考えないためにちょうどよかった。


「その修正、三回目ですけど」


 斜め向かいから高橋が言った。


 澪は画面から目を離さないまま返す。


「三回で済んでるなら平和です」

「平和には見えませんけど」

「見た目だけ平和なのが一番まずいんです」

「朝から刺さりますねえ」

「高橋さんが見てるからです」

「人のせいにされた」

「観察されると腹が立つんです」

「興味深い観察対象なんですけどね」

「観察は私の専売特許です」


 そこで少しだけ、澪は口元を緩めた。


 あの日以来、澪は矢吹常務と直接顔を合わせていない。報告は高橋経由か、システム上のコメントで済んでいた。常務からも特に呼び出しはない。あの夜のことがなかったかのように、案件だけが淡々と進んでいく。


 それがありがたいのか、苦しいのか、自分でも分からなかった。


 昼前、営業本部との短いオンライン確認が終わったあと、澪は会議ログの整理画面を閉じた。先方との認識差はひとまず埋まりつつある。完全に火が消えたわけではないが、少なくとも延焼は防げそうだった。


 危機管理室としては、悪くない着地だ。


 そう思うべきなのに、胸の奥には妙な空白が残っていた。


「篠宮さん」


 高橋が自席から身を乗り出す。


「今日、総務とすり合わせ入りますよね。例の再発防止メモ」

「はい」

「相沢さん、来ますよ」

「来るでしょうね」

「平気ですか」


 その問いに、澪はようやく顔を上げた。


「何がですか」

「いや、別に」

「雑ですね」

「聞き方がですか」

「気遣いがです」

「すみません、繊細じゃなくて」

「知ってます」


 高橋は笑った。


「でも、無理はしないでくださいね」

「無理してないです」

「その言い方、だいたい無理してる人のやつです」

「平気です。平気じゃないと困るので」

「困ってはいるんですね」

「ええ。見れば分かる程度には」


 高橋はそれ以上言わなかった。だが、言いすぎないその感じが、少しだけありがたかった。


 午後二時、総務部との再発防止策すり合わせは小会議室で始まった。


 出席は相沢、三浦、澪、高橋の四人だけだった。大型会議ほどの緊張感はない。だが人数が少ない分、ごまかしも利かない。


 再発防止策のたたき台は危機管理室が作っていた。AI要約の利用ルール、原ログ確認の必須条件、対外説明に使う表現の統一、担当者レベルの認識を会社見解として扱わないためのフロー整備。内容自体は妥当だと澪も思っている。


 問題は、その文書の主語だった。


「この書き方だと、危機管理室が全件レビューするように読める」


 相沢が画面上の文案を見ながら言った。


「実務上、無理だ」


「全件ではありません。一定条件に該当した案件だけです」


 澪が返すと、相沢は首を横に振った。


「“一定条件”が曖昧だ。現場は広く取る。広く取れば回らない。狭く取れば抜ける」


「だからAIで一次抽出をかけます」


「一次抽出は使えばいい。だが、抽出条件の管理責任をどこに置く」


「危機管理室です」


「その根拠は」


 澪は一瞬詰まった。


 根拠がないわけではない。だが、制度としてまだ固まっていない。危機管理室は新設で、権限も運用も走りながら作っている最中だ。そこを相沢は正確に突いてくる。


「現時点では、危機管理室が最も横断的に見られます」


「見られることと、持てることは違う」


 静かな声だった。


 三浦が気まずそうにタブレットを見下ろし、高橋は口を挟まずに成り行きを見ている。


 澪は自分の指先が少し冷えていくのを感じた。


「では総務部としては、どうするべきだと」


「一次抽出条件は危機管理室が提案する。運用管理は所管部門と共同。対外説明に関わる案件だけ、総務と危機管理室がレビューに入る」


「それでは危機管理室の判断が埋もれます」


「埋もれさせないために文言を詰めるんだ」


 相沢はそう言って、画面をスクロールした。


「篠宮、お前の案は悪くない。だが、このままだと“危機管理室が全部見る部署”だと誤解される。そんな部署はすぐ潰れる」


 その言い方に、澪は反射的に言い返しかけた。だが、言葉が出る前に止まる。


 潰れる。


 相沢は脅しているのではない。本気でそう思っているのだ。危機管理室を守るために、危機管理室の権限を広げすぎるなと言っている。


 それが分かるから、余計に腹が立つ。


「……分かりました。文言は修正します」


 澪がそう言うと、相沢は短く頷いた。


 会議はその後、実務的に進んだ。レビュー対象の条件、AI抽出の閾値、原ログ確認の責任者、対外説明前の承認フロー。細かい論点を一つずつ潰していく。内容は建設的だったし、実際、相沢の修正は的確だった。


 だからこそ、終わった時の疲労感が大きかった。


 会議室を出たあと、高橋が隣で小さく息を吐いた。


「相変わらず強いですね」

「……ええ」

「でも、今回は篠宮さんもそんなに押し負けてなかったですよ」

「負けています」

「即答だ」

「助かってます。腹は立ってますけど」

「両立してますね」

「高橋さん、たまに他人事みたいに正しいですね」

「褒め言葉として受け取っておきます」

「便利ですね」

「便利にできるものは便利にした方がいいですよ」


 澪は少しだけ息を吐いた。


「相沢さん、たぶん潰しに来てるわけじゃないですよ」

「分かってます」

「その顔で言います?」

「分かってるから腹が立つんです」


 高橋は少し黙ってから、やわらかく言った。


「それ、篠宮さんらしくて安心しました」

「今のは慰めですか」

「半分」

「残り半分は」

「観察です」

「最悪ですね」

「よく言われます」


 分かっている。相沢は正しい。正しいし、たぶん守ろうとしている。危機管理室を、会社を、そしておそらく自分のことも。


 それでも、正しさに守られるのは、時々ひどく息苦しい。


 夕方、修正した再発防止メモをシステムに上げ、関係者にレビュー依頼を飛ばしたあと、澪はようやく席を立った。給湯スペースで紙コップにコーヒーを注ぎ、窓際の小さな休憩スペースに移る。


 人の少ない時間帯だった。


 ガラス越しに見える街は、まだ明るい。ビルの窓に夕方の光が反射して、どこもきれいに見える。きれいに見えるものほど、近くで見ると歪んでいるのかもしれないと、ふと思った。


「珍しいな」


 声がして、澪は振り向いた。


 相沢だった。


 ネクタイを少し緩め、片手に缶コーヒーを持っている。総務部のフロアに戻ったはずなのに、どうしてここにいるのかと思ったが、考えてみればこの休憩スペースは共用だった。


「休憩です」


「見れば分かる」


 相沢はそう言って、少し離れた位置に立った。隣には来ない。その距離感が、相沢らしかった。


 しばらく沈黙が落ちる。


 澪は紙コップの縁を見つめたまま、先に口を開いた。


「今日の修正、ありがとうございました」

「礼を言われることじゃない」

「でも、助かりました」

「助かった顔には見えない」


 澪は思わず顔を上げた。相沢は窓の外を見たまま、こちらを見ない。


「……そんな顔してましたか」

「してる」


 短い返答だった。


 澪は少しだけ息を吐いた。ごまかしても無駄だと分かる相手は、こういう時に厄介だ。


「別に、仕事の話です」

「仕事の話だろうな」

「それ以上でも以下でもありません」

「そうか」


 その言い方が、妙に引っかかった。


 澪は紙コップを持つ手に力を入れた。


「何ですか」

「いや」


 相沢はそこで初めて澪を見た。


「お前、無理に平気な顔する時、前より分かりやすくなったなと思って」


 胸の奥が、ひやりとした。


「……そんなことありません」

「あるよ」

「ありません」

「ある」


 子どもみたいな応酬になって、澪は自分で嫌になった。視線を逸らし、冷めかけたコーヒーを一口飲む。苦い。


 相沢はそれ以上追わなかった。追わないまま、缶コーヒーを開ける音だけが小さく響く。


 その沈黙に耐えきれなくなったのは、澪の方だった。


「あの」

「何だ」

「……自分がよく分からない日があって、たぶんあれは勘違いだったんだと思います」


 相沢はすぐには答えなかった。


「……すみません」

「何に対して」

「いろいろです」

「雑だな」

「ちゃんと説明できません」

「だろうな」


 澪は紙コップを見たまま、小さく息を吐いた。


「でも、たぶん少し、いろんなものを取り違えていただけで」


 相沢はしばらく黙っていた。やがて、静かに言う。


「そう整理したいなら、それでいい」


 その一言は、思っていたよりずっと静かで、思っていたよりずっと痛かった。


 否定されなかった。

 引き留められもしなかった。

 ただ、受け取られた。


 自分で差し出した逃げ道を、そのまま相手に認められることが、こんなに苦しいとは思わなかった。


 澪は笑おうとして、うまくいかなかった。


「……そうですよね」


「謝ることでもない」


 相沢はそう言った。


「勘違いでも、本気でも、その時のお前だったんだろ」


 澪は息を止めた。


 優しい言葉ではない。慰めでもない。けれど、その言い方はずるいと思った。切り捨てるなら切り捨ててほしいのに、完全にはそうしない。


「今さら訂正しなくていい」


 相沢は缶を軽く振って、中身の残りを確かめるように見た。


「ただ、整理したいなら勝手にしろ」


 それだけ言って、相沢は先に休憩スペースを出ていった。


 澪はその背中を追わなかった。


 追えなかった。


 紙コップの中のコーヒーは、もうほとんど冷えていた。窓の外はさっきより少し暗くなっていて、ビルの灯りが増えている。


 そう整理したいなら、それでいい。


 たったそれだけの言葉が、胸の中で何度も反響する。


 自分で言ったくせに。

 自分で逃げ道にしたくせに。

 どうしてこんなに痛いのか、澪には分からなかった。


「……ばかみたい」


 その日の帰り道、スマートフォンに一件の通知が入った。危機管理室の共有チャット。高橋からだった。


 ――再発防止メモ、総務レビュー通りました。ひとまず一勝ということにしておきましょう。


 澪は立ち止まり、画面を見つめた。


 一勝。


 そう言われても、今日は何も勝った気がしなかった。


 けれど、少しだけ救われる自分もいた。仕事は進んでいる。自分がやったことも、ゼロではない。全部が勘違いだったわけではない。


 その“全部じゃない”にすがるみたいで、嫌だった。


 駅へ向かう人の流れに紛れながら、澪はスマートフォンを鞄にしまった。


 整理したいなら勝手にしろ。


 相沢の言葉は、突き放しているようでいて、どこかで澪に委ねていた。

 答えをくれるわけではない。

 救ってくれるわけでもない。

 ただ、自分で決めろと言われただけだ。


 それが今の澪には、ひどく重かった。


 会社の最寄り駅に着くころには、空はすっかり夜になっていた。

 ホームに滑り込んでくる電車の窓に、自分の顔が映る。


 少し疲れていて、少し傷ついていて、それでも朝よりはましな顔をしていた。


 勘違いだったのかもしれない。


 そう思う。


 でも、勘違いだけでは、あんなふうに痛まない。


 電車のドアが開き、人の流れが動き出す。

 澪は一歩踏み出して、それから小さく息を吐いた。


 明日も仕事がある。


 それだけが、今は救いだった。


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